感想

感想を書きました

世阿弥『風姿花伝』3

過去二回に渡って風姿花伝について感想を書いてきましたが、今回で終わりにしようと思います。最後は、風姿花伝の中に度々登場する「花」という文言に関して感想を書きます。


「花」が風姿花伝の中で初めて触れられるのは、『年来稽古条々』の『十二三より』という章です。ここでは、数えで12.3歳、今で言うところの11.2歳の能に関して述べられています。

世阿弥はこの頃の能を「童形なれば、なにとしたるも幽玄なり」「悪き事は隠れ、よき事はいよいよ花めけり」と、幼い時分の特長を述べた上でこう釘を刺します。


"さりながら、この花はまことの花にはあらず、ただ時分の花なり。されば、この時分の稽古、すべてすべてやすきなり。さるほどに、一期の能の定めにはなるまじきなり。"
(『風姿花伝第一 年来稽古条々』)


11.2歳の頃の能は、幼さ故に何をやっても華々しく見え、稽古はすべて容易いものであるが、( だからこそ )一生の能を決定付けるものではない。

風姿花伝第一 年来稽古条々 十七八より』に関して書いた初回の感想文で触れましたが、その後数年が経ち、二次性徴を迎えると幼い時分の花は失われ、苦悩の時期が訪れます。

「時分の花」とは役者の年齢の変化、流行の変化などによって失われてしまう、その時限りの花のことらしいです。


では、そもそも世阿弥のいう「花」とは何なのでしょうか。


"そもそも、花といふに、万木千草において、四季折節に咲くものなれば、その時を得てめづらしきゆゑに、もてあそぶなり。申楽も、人の心にめづらしきと知る所、すなはち面白き心なり。花と、面白きと、めづらしきと、これ三つは同じ心なり。いづれの花か散らで残るべき。散るゆゑによりて、咲く頃あればめづらしきなり。能も、住する所なきを、まづ花と知るべし。"
(『花伝第七 別紙口伝』)


"時分の花、声の花、幽玄の花、かやうの条々は、人の目にも見えたれども、そのわざより出で来る花なれば、咲く花のごとくなれば、またやがて散る時分あり。されば、久しからねば、天下に名望少なし。ただ、まことの花は、咲く道理も散る道理も、心のままなるべし。されば久しかるべし。この理を知らん事、いかがすべき。もし、別紙の口伝にあるべきか。
ただ、わづらはしくは心得まじきなり。まづ、七歳よりこのかた、年来稽古の条々、物まねの品々を、よくよく心中にあてて分かち覚えて、能を尽くし、工夫を極めて後、この花の失せぬ所をば知るべし。この物数を極むる心、すなはち花の種なるべし。されば、花を知らんと思はば、まづ種を知るべし。花は心、種はわざなるべし。
古人曰く、
( 以下、便宜上書き下して引き写す )
心地に諸々の種を含み
普き雨に悉く皆萌す
頓に花の情を悟り已れば
菩提の果自ずから成る"
(『風姿花伝第三 問答条々』)


花は時節によって咲き、散るからこそ魅力があるものである。能の魅力も、咲く時もあれば散る時も必ずある。だからこそ面白い。散ることのない花などない。しかし、「まことの花」を得たならば咲く道理も散る道理も心のままである。

一見矛盾したことを言っているように思えますが、「咲く道理も散る道理も、心のままなるべし」という言葉の真意は、一所に留まることなく、新しい「面白き」ことと「めづらしき」ことを求め続ける営みにこそ、「まことの花」が宿るという事にあります。花はいずれ散ることを受け入れた上で、新たな種を残し続けることが、「咲く道理も散る道理も、心のまま」にする唯一の方法です。

世阿弥風姿花伝の中で度々、得意分野に固執せずに様々な役柄や演目をこなせる役者になることを勧めています。なぜそんなにも物数をこなすことに拘るのか不思議に思っていましたが、それを「まことの花」についての考えに当てはめると合点がいきました。

つまり、一つの役柄が得意でそれでのみ高く評価されている人の「花」は、それが花であるゆえにやがて散る運命を免れない。ただ一つの魅力しかもたない役者の花は「時分の花」でしかない。

ものすごく乱暴に言えば一発屋にしかなれないということです。

天下に許されを得て一座を永続させることを第一とした世阿弥の考えからすれば、自分のやりたい表現など取るに足らないもです。それよりも、何でもできる役者になる方がよっぽど大事、むしろその事にしか興味がないようです。


最後は、世阿弥の残した最も有名な文言である、「秘すれば花」についてです。
「沈黙は金」と混同して使われることもあるこの文言ですが、その意味するところは全く違います。


"秘する花を知る事。秘すれば花なり。秘せずは花なるべからずとなり。この分け目を知る事、肝要の花なり。
そもそも、一切の事、諸道芸において、その家々に秘事と申すは、秘するによりて大用あるがゆゑなり。しかれば、秘事といふことをあらはせば、させる事にてもなきものなり。"
(『花伝第七 別紙口伝』)


世阿弥は、家々に伝わる秘事( および秘伝 )に関して、その内容だけでなく、それが存在する事自体を秘匿せよと言います。

観客が「何か新しい演出があるらしい」と期待した上でそれを見せても大した効果は上げられないからです。だから、新しい事、凄い事をやる前にはそれをやるという素振りすら見せてはならない。それが、「人の心に思ひも寄らぬ感を催す手立」らしいです。


さて、長々と感想を述べてきましたが、これで終わりです。

歴史上の人物が自分にも共感し得る、信じられることを言ってくれている事実、自分が信じる言葉を言ってくれた人が歴史的に重要な人物である事実には相当に救われ、背中を押される気持ちになりますが、そんなことは風姿花伝の内容や世阿弥の意志には全く関係がないのであまり言わない方が賢明かもしれません。

おもしろかったです。

世阿弥『風姿花伝』2

前回『年来稽古条々』から、不遇の時期に芸道を歩む姿勢について感想を書きました。
風姿花伝ではそういった抽象的な話から、細かい能の技術まで論じられています。


"およそ、女がかり、若き為手のたしなみに似合ふ事なり。さりながら、これ、一大事なり。
まづ、仕立見苦しければ、さらに見所なし。女御・更衣などの似せ事は、たやすくその御振舞を見る事なければ、よくよくうかがふべし。衣・袴の着様、すべて私ならず。尋ぬべし。"
(『風姿花伝第ニ 物学条々 女』)


女性の役を演じる時の心得を論じた章です。女形に関して、まず「若き為手のたしなみに似合ふことなり」と、若い演者がやるべきだとしています。そして女形を一大事( 非常に難しいこと )とした上で、仕立( 扮装 )が下手であったら見られたものではないと言います。

衣や袴の着付け方にも、万事定まった約束事があるためよくよく探求するべきだ、と、演者が勝手な解釈で扮装を疎かにすることを諌めています。


続いて、公演によって異なる会場や客にいかに対応するかについて論じた部分を抜粋します。


"まづ、その日の庭を見るに、今日は能よく出で来べき、悪しく出で来べき、端相あるべし。( 中略 )さるほど、いかにもいかにも静めて、見物衆、申楽を待ちかねて、数万人の心一同に、遅しと楽屋を見るところに、時を得て出でて、一声をも上ぐれば、やがて座敷も時の調子に移りて、万人の心、為手の振舞に和合して、しみじみとなれば、なにとするも、その日の申楽は、はや良し。"
(『風姿花伝第三 問答条々』)


「庭」とは会場の事です。その日の会場や客席のの状態を見れば今日の演能が上手くいくかどうかの前兆がある、と言います。
客席が静まり、期待が高まり、気持ちが合わさった瞬間を捉えて登場し、冒頭の謡に入れば、「万人の心、為手の振舞に和合」するものらしいのですが、では、客席が落ち着いていない場合はどうするべきなのでしょうか。


"見物衆の座敷いまだ定まらず、あるいは後れ馳せなどきて、人の立ち居しどろにて、万人の心、いまだ能にならず。されば、左右なくしみじみとなる事なし。さやうならん時の脇の能には、物になりて出づるとも、日ごろより色々と振りをもつくろひ、声をも強々とつかひ、足踏みをも少し高く踏み、立ち振舞ふ風情をも、人の目にたつやうに生き生きとすべし。"
(『風姿花伝第三 問答条々』)


客席が静まらず、遅れてきた客などがいて能に集中する環境が整っていない、しかし申楽は貴人の御前で演じることを本意とするため、貴人がすでに到着している場合には早く始めければいけない。そういう時の冒頭の能は、扮装をして登場する場合でも、いつも以上に動作を飾り、発声も力強く行い、足踏みも高く、人の注目を集めるために生き生きと演じるべきである。


以上の三つの抜粋から、世阿弥の( あるいは能の )考え方として、無私であることを重要視することが挙げられます。当時の芸能は押し並べてそうなのかも知れませんが、殊に風姿花伝においては、「何を表現したいか」「観客に何を伝えたいか」に関する記述は全くありません。

演じる対象に合わせた扮装を「私ならず」徹底すること、客席の状態によって演じ方を変えることは、すべて無私の営みです。
演者の我を捨て、客からどう見えるかだけを問題とする姿勢には厳しくさっぱりとした潔さを感じます。


"能に、強き・幽玄、弱き・荒きを知る事。( 中略 )まづ、弱かるべき事を強くするは、偽りなれば、これ荒きなり。強かるべき事に強きは、これ強きなり。荒きにはあらず。もし、強かるべき事を幽玄にせんとて、物まねに足らずは、幽玄にはなくて、これ弱きなり。さるほどに、ただ物まねにまかせて、その物になり入りて、偽りなくは、荒くも弱くもあるまじきなり。"
(『花伝第六 花修』)


鬼能( 強き能 )と歌舞能( 幽玄能 )の演じ方についての記述です。

幽玄であるべき役柄を力強く演じることは、力強いとは言わず、荒いだけである。力強いはずの役柄を幽玄に演じることは、幽玄ではなく、弱々しいだけである。

ここで世阿弥は、その役にそぐう演技ではなく自分のやりたいようにやることを強く批判しています。

さらに、「強かるべき理過ぎて強きは、ことさら荒きなり」と、やりすぎを諌めてもいます。


この考え方の行き着く先は、シンプルで徹底した演技の追究でした。


"この分け目をよくよく見るに、幽玄と強きとは、別にあるものと心得るゆゑに、迷ふなり。この二つは、そのものの体にあり。( 中略 )万物の品々を、よくし似せたらんは、幽玄の物まねは幽玄になり、強きはおのづから強かるべし。この分け目をば宛てがはずして、ただ幽玄にせんとばかり心得て、物まねおろそかなれば、それに似ず。"
(『花伝第六 花修』)


つまり、ある役柄があった時に、「これは幽玄な役柄だろうから幽玄に演じよう」とか「これは力強く演じよう」とか考えるのではなく、ただ似せることのみを追究すれば、幽玄な役柄は自然と幽玄になり、力強い役柄は自然と力強くなるということです。

世阿弥はここでも、自分の解釈や色を出すことに批判的な態度を取っています。能が客人を楽しませることを目的としたものである以上、演者のやりたいことは全く無視するべきことなのでしょう。
要するに、似てるかどうか、ウケるかどうかが大事で、それ以外はどうでもいいということです。

女の役を演じることに関して、「若き為手のたしなみに似合ふ事なり」と言い切り、「若き為手」以外が演じる場合の対策を全く論じていません。暗に女装が似合わない演者は女役をやるなと言っている。演者がやりたいかどうかは関係ありません。いくら必死に女役に取り組み、上手に演じられるようになったところで、似合ってなければウケないからです。


似合わない役はやらないこと、その場の雰囲気に合った演じ方をすること、役柄に関して自分の解釈をせず、ただ似せることによって幽玄や強さを表現すること。どれも「ウケるかどうか」という観点を一貫できていれば当たり前のようなことに思えます。しかし、どうも表現者や芸術家といった人達は、自分が何を表現したいかを追究するものらしいです。らしいですし、自分の中にある衝動を徹底して掘り下げ、その細部まで形にして見せてくれる人を僕は信じます。


どちらが優れているとかそういう問題ではなく、単に、「徹底しろよ」と言いたい。

世阿弥のように、客にウケることだけを考えるのも芸道の形です。周りを気にせずに自分の信じるイデアのようなものだけを追究する営みも芸術と呼ぶでしょう。

しかし、やりたいことをやってる振りをして上目遣いでチラチラ世間様の様子を確認するような奴や、人にウケるためのエンターテイメントをやってるつもりでもこっそり自分の欲求を満たしてる奴ばっかりではないでしょうか。自分も含めて。

「自分も含めて」と言っちゃう時点で逃げを打っている自覚が湧いてきて嫌な気持ちになりました。「ええわかってます。私もそうです。だから責めないでください」と言っているようなものです。その時点で徹底ができていません。

もっと自分の言葉や行動に伴う責任や結果を受け入れないといけない。一つのことを徹底するためには、あらゆる事象をありのまま受け入れて、「じゃあどうするの?」と問い続けて実行し続けることが必要なのだと思います。世阿弥の背中は見えません。


続きます。

世阿弥『風姿花伝』1

大体の人が中学や高校の授業で習う、あの世阿弥です。能を大成したといわれるあの人です。風姿花伝といえば「秘すれば花」という言葉がかなり有名で、そのあたりは知っている人も多いのではないかと思います。

 

"およそ、家を守り、芸を重んずるによつて、亡父の申し置きし事どもを、心底にさしはさみて、大概を録する所、世のそしりを忘れて、道のすたれん事を思ふによりて、まつたく他人の才学に及ぼさんとにはあらず。ただ子孫の庭訓を残すのみなり。"

(『風姿花伝第三  問答条々』)

 

風姿花伝の結びの言葉です。父である観阿弥から受け継いだことを子孫に残すために「世のそしりを忘れて」記した、という事が書かれてありますが、執筆当時、すでに観阿弥の死から十七年経っており、世阿弥は時の太政大臣足利義満の寵愛を最も受ける役者であったことからも、風姿花伝の内容は観阿弥から受け継いだものというより、天下に許しを得たという自覚から記された、世阿弥の発明に属するということが一般的な見方になっています。

 

 さて、内容に関してですが、生涯を通じて稽古をする上で、その時期によって為すべきことを記した『年来稽古条々』、役柄に合わせての演技のあり様を具体的に述べた『物学条々』、台本の書き方や棟梁としてのあり方、香盤の組み方に至るまでの様々な事項を深く掘り下げた『問答条々』『花修』など、かなり多岐にわたっています。

なので、ところどころピックアップして感想を書こうと思います。

 

まずは、『年来稽古条々』から、『十七八より』という項について書きます。

 

" この頃は、また、あまりの大事にて、稽古多からず。まづ、声変わりぬれば、第一の花失せたり。体も腰高になれば、かかり失せて、過ぎし頃の、声も盛りに、花やかに、やすかりし時分の移りに、手立はたと変わりぬれば、気を失ふ。"

 (『風姿花伝第一  年来稽古条々』)

 

数えで17、8歳の頃についてなので、今で言うところの15〜7歳くらいのことを言っています。声変わりを過ぎ、背も伸び、大人に近い姿に変わったことで、姿の美しさや可愛らしさを失い、今までのやり方が通用しなくなり、「気を失ふ ( やる気がなくなってしまう ) 」ことを言っています。

あまりに大変な時期なので、やれる稽古の種類は多くないということですが、ではどうすればいいのでしょうか。

その解決策を次のように述べています。

 

"指をさして人に笑はるるとも、それをばかへりみず、(中略) 心中には願力を起こして、一期の境ここなりと、生涯にかけて能を捨てぬより外は、稽古あるべからず。ここにて捨つれば、そのまま能は止まるべし。"

(『風姿花伝第一  年来稽古条々』)

 

幼い時分にはあった華を失い、思うように演技が出来なくなった時にするべきことは至ってシンプルでした。

他人の目を気にせず、「心中には願力を起こして」、ここが人生の分け目と思い、一生能を捨てないという覚悟でやるしかない。「能は止まるべし」という記述から、ここでの「能」とは芸能の種類としてではなく、能の真髄に迫る道程を示す言葉だと思われます。

現代の子役もそうですが、子供であるということは、それだけで価値のあるものとして扱われます。子供の華とは、技術によって得たものではなく、先天的に持っているものの純度が ( それ以外のものを得ていないから ) 高いために天才のように見えることです。

15〜7歳になるまでにそれを失い、先天的なものではなくて、生まれてきてから何をやってきたか、という部分が実力に大きく関わってきた時、ほとんどの人は、自分は天才ではないことを思い知るでしょう。

その上で、「能を捨てぬ」しかない。ただ漫然と続けるのではなく、例え報われなくても、その道の真髄にたどり着くための営みを止めてはならない。

 

メイプル超合金カズレーザーはインタビューで芸人として売れることを「宝くじみたいなもの」とした上でこう言います。

 

" でも、実は宝くじ売り場自体に並んでいない人がすごく多い。宝くじ売り場がどこにあるのかがわかっていないんです。宝くじを買ってもいないのに、当たるかどうか待っている人たちがあまりにもいます。売れるために最低限必要な要素はあると思うんです。"

http://toyokeizai.net/articles/-/153921

 

売れるためには、お笑いをやめないことは当たり前ですが、その上で、売れるために必要なことを続けないといけない。何が売れるのか、「宝くじ売り場」がどこにあるのか探し続け、宝くじを買い続けるしかない。それをしなければ、芸道を歩んでいるとは言えない。

このことは、『十七八より』で世阿弥が論じたことと共通するように思えます。自分は天才ではないと実感した時に、「一期の境ここなり」と思い詰め、報われるかどうかを度外視して、必要なことをやりつづける覚悟を持つことが、芸道を歩むということなのだと思います。

続きます。

阿部共実『ちーちゃんはちょっと足りない』

小さい頃から読書感想文を書くのは得意でした。いい文章を書くことではなく、定められた字数を書いて提出することが、です。

周りには読書感想文を苦手とする人が多くいました。大抵そういう人は題材にする本の選び方が下手でした。

感想文の書きやすい本には、ただおもしろいだけでも感動するだけでもなく、うまく言えませんが、ちょうどいい余白があります。その余白を自分なりに埋めたものを感想文にすれば簡単に800字くらいは書けました。

 

 

さて、『ちーちゃんはちょっと足りない』に関してですが、この漫画はかなり感想文が書きづらいと感じています。書きづらいわりに、今、読んで感じたことをなにか形にしないともやもやして仕方ない気持ちにさせられています。

余白は十分にあります。ただおもしろいだけでも、感動したり悲しんだりするだけでもない漫画なのに、書けない。

 

なぜ書けないか、理由はうっすらわかります。この漫画はあまりに読み手の感情の奥にある薄暗く湿った部分に迫るために、自分に引きつけずに読むことがほとんど不可能だからです。

 

"ケニーは過度に興奮する子供で、何を読んでも自分に関わる意味を読み取ってしまう。そして、文学を成り立たせているほかのすべてのことを無視してしまう"
( フィリップ・ロス『ダイング・アニマル』)

 

「自分に引きつけて読む」ことは、文学に限らず、ある作品を読んだり観たり聴いたりしたときに受け手が取る態度として不純なものだと思います。

結局、そうして受け取ったものは自分の感情の引き出しの中にもともとあったものでしかない。自分の中にある、その作品のエッセンスに似た物を取り出して、勝手に感動したり悲しんだりすることは、果たしてその作品に触れたと言えるでしょうか。

前回こだまさんの過激さに関して書いたことと少し被りますが、「自分に引きつけて読む」ことは、人を勝手にカテゴライズすることに近い横暴さがあります。しかし、『ちーちゃんはちょっと足りない』を読んで、確実に自分が持っているのにほとんど忘れている、もしくは忘れようとしている引き出しを思いっきり開けられました。それが開いた時点で、不純な態度をとり、横暴な感想を書く以外の方法がなくなってしまいました。

 

中学二年生のナツは、いつも一緒にいるちーちゃんと自分を指して「足りない」と嘆く。人に比べて足りないものを並べ立てて、自分は底辺だ、クズだと悲観します。

この漫画は当時相当な話題になり、共感する人が続出した( らしい )のですが、自分は底辺だ、クズだという気持ちに共感する人の多さに救われ、同時にまんまと共感してしまった自分が凡庸であることに気づかされて嫌気が差します。

自分もナツと同じだ、自分こそがナツの理解者だと思わされた時、共感を由来にした安堵と自己嫌悪が入り混じって、食べ合わせの悪い物を同時に口に入れた時のようないやな気持ちになります。

この漫画を読んだ多くの人もそう思っているとしたら、みんな底辺でもクズでもなく、それぞれそれなりにいいところがあるはずなのですが、そんなことは個人の問題には関係のないことだから、みんな自分自身の卑しさのために悩んでいるのだと思います。

 

さて、この漫画では残酷なほどナツのいいところは描かれません。全く描写がないわけではないのですが、ナツがちーちゃんの世話を焼いたり、いつも一緒にいたりすることを、純粋な好意として描いてくれていないのです。

「足りない」自覚のあるナツから見てもちーちゃんは「足りない」存在だったので、ちーちゃんといる間は劣等感を抱かずに済むから、ナツはちーちゃんと一緒にいる、なんて嫌な見方もできます。

むしろ、そういう見方ができるように仕組まれている。ナツがそのことに自覚があるのにないふりをしている様が伝わってきてしまう。

 

人に優しくしたりして、それが所詮自己満足であることに気づいた時、どうにもならない嫌な気持ちになります。好意はただ好意であることは稀で、常に儀礼や打算に汚されているものです。みんなそれに気づいているのに気づかないふりをして生活するしかない。せっかく気づかないふりをしてきたのに、この漫画にその事実を目の前に突きつけられました。特にクライマックスのナツの台詞が相当にキツいんですが、ここで引用しても伝えられるわけがないので引用しません。

 

タイトルにもある「足りない」という言葉はこの漫画のキーワードなのですが、自意識の無根拠な不満を表す言葉としてかなり適切だと思います。

物語の筋だけ追ったら、ナツの身にはほとんど何も起きていません。でも、足りないし、自分はクズだと思うし、"あーあ、つまんない   自殺でもしようかな"と思うし、"未来がせまいよ"とも思う。女子中学生の取るに足らないセンチメンタルと言ってしまえばそれまでになる問題が、読み手の感情の引き出しの、まだ誰も開けなかった部分を開けてくる。

 

誰もが共感できる漫画なのかはわかりませんが、少なくとも僕は共感したし、共感しない人よりする人の方を好きだと思います。それも多分、純粋な好意ではなく、くだらない同族意識でしかないのです。そう思わされるのも、この漫画のせいです。

おもしろかったです。読まなきゃよかった。

 

 

『ちーちゃんはちょっと足りない』を読んで - ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ

乗代雄介が書いた『ちーちゃんはちょっと足りない』の感想です。全く自分に引きつけずに読み、感想を書いています。こんな感想文があったら、もう誰も感想なんか書く必要がなくなるくらいすごいです。

現代の小説家や過去の文豪を見渡しても、乗代雄介ほど、読み、書くということにこんなに真摯に向き合っている人を他に知りません。僕の知識不足なだけかも知れませんが、今はとにかくそう思います。

こだま『夫のちんぽが入らない』

こだまさんという主婦の方が18歳で一人暮らしを始めてから38歳になるあたりまでの20年を振り返って書いた私小説です。入らないらしいです。

インターネットを中心にかなり話題になってます。amazonの書籍部門ランキング1位になってました。

 

 

まず、めちゃくちゃに過激な人が書いた本だ、と思いました。過激というのは別にタイトルのことを言っているわけではありません。タイトルも相当なんですが、それはすでに散々話題になっていることなので、もう触れるまでもありません。

 

哲学者の内田樹は、劇作家であり演出家の平田オリザを評して「虚の過激さ」があると言いました。

 

"こういう「虚の過激さ」というのは、欧米のドラマツルギーのうちにはまず見ることのできないものである。かの地では、「自分はこう思い、こう感じる」ということを明晰判明かつはっきりした声で言わないと「存在しない」かのように扱われる。(中略)だが、本当に法外な思念や感情は、人々から「ああ、『あれ』ですね」と簡単に了解されるような既存の度量衡で考量されることを拒む。そんなふうに「たかをくくった」かたちで了解され、それに基づいて慰撫されたり、気味悪がられたり、気を遣われたりするくらいなら、いっそ「ないもの」と思われた方がまだましだ"

( 内田樹平田オリザの法外な過激さについて』文藝別冊 )

 

こだまさんの文章にも、この「虚の過激さ」を感じます。極度の引っ込み思案、物理的に成立しない夫とのセックス、担任として受け持ったクラスの学級崩壊、自己免疫疾患、夫のパニック障害、客観的に見ても主観的に見ても高すぎるハードルだらけの人生です。

しかしこだまさんはそれをありきたりな悲劇のようには書かない。おそらく、そういう書き方をしても「ああ、『あれ』ですね」としか思われないことがわかっていて、それを極度に嫌っているのでしょう。だからどんなに悩んでいて苦しい場面でも、こだまさんの文章には水の中のような静けさがあります。

 

一つの事実があって、それ自体はただの事実で、善も悪もないという考えは文学的でストイックではありますが、倫理観の欠如であるとも言えます。その事実が誰かにとって苦しいものであるならなおさらです。

こだまさんは自分にとって苦しい事実すら善悪の観念を抜いて捉え、書いている。それがどれだけ難しいことかは想像もつきません。自分が悩んでいたこと、苦しんでいたことを書いているはずなのに、ものを書く人としての姿勢でそれを書いている。これを過激と言わずどう言えばいいのでしょうか。

 

そしてこだまさんは、自分が安易にカテゴライズされることを嫌うかわりに、他人にもそれをしないという姿勢を徹底しています。

中盤で「アリハラさん」という人が出てきます。この人は山が好きなのですが、好きといっても性的な方で、山が性的に好きっていうのも意味がわからないと思いますが、登頂する度に自慰行為をするという、バカやべー変態野郎です。

こだまさんは不幸にもその現場の立会人になってしまうわけですが、この人のことすらこだまさんは善悪の観念なしに書いています。 自分とは明らかに違う価値観を前にして、それを自分の価値観で勝手にカテゴライズ(または断罪)するのでも、わかったつもりになるのでもなく、ただ「ある」ものとして捉えています。

こだまさんがそれまでの人生でたくさんの人の「わかったつもり」にさらされて、その安易さも厭らしさも知っているからこそ「アリハラさん」のようなとんでもない変態に対してもその姿勢を貫けるのだと思います。

 

「アリハラさん」の話はもう終わりです。

さて、善悪の観念のない芸術は、イデオロギーの伝達手段としての芸術の強烈なアンチテーゼたり得ます。

 

"だってみんな、自分の意見を抱きしめながら、空いてる手でケンカするんだもの。それなら俺は、家で一人で両手で、自分の意見をぎゅっと抱きしめてればいいと思うんだよ"

( のりしろ『カルシウムでそんでなんかごちゃごちゃ言ってんの俺が』ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ-はてなブログ )

 

小説家の乗代雄介がかつて自身のブログに載せた文章の一部です。

乗代雄介はこだまさんが同人誌という形で初めて文章を世に出すときに、その同人誌を共同制作した仲間でもあります。

イデオロギーの伝達手段としての芸術は、所詮片手で自分の意見を抱いて空いてる手でケンカできるようなものでしかない。こだまさんの文章には空いてる手がない、そもそも、自分の価値観が他人のそれよりも優れているという気さえないという感じがします。

他人の価値観や、それが形成される背景をどこまでも尊重( 決して共感ではない )し、押し付けない姿勢は一見穏便なようにも見えますが、裏を返せば押し付けたいほどの主義主張がないということでもあります。

 

主義主張のないまま、温かく同時に冷めきった視線で自分自身の20年を見つめ、それを文章にして克明に表す。こんな所業は並大抵の人にできることではなく、また、できるようになりたいとも思えません。

そんな過激な人間になる覚悟は到底僕には持てそうもないし、多分なろうと思ってなるものでもないからです。

おもしろかったです。