感想

ネタバレが多い

乗代雄介『生き方の問題』(群像2018年6月号)5

なんか話がとっちらかってきちゃったな。今回で終わりにしましょう。

適切な引用ができているのかすらわからなくなってきましたし、「想像の悪」に関してはよくわかりません。そもそもほとんどのことがよくわからない。わかったふりをする技ばかり磨いている。本当は、「俺はこんな難しい本を読んでいるぞ。こんな高尚なことを考えているぞ」と自慢したいだけなんです。(そういうのを衒学的って言うらしいですね。さっき知りました。「衒学的」という言葉自体があまり一般に浸透してはいないから、日常会話で誰かを「衒学的」だと言うと、それを言った人も衒学的な人になるなあ。すみませんどうでもいい話をしました。)

まあいいでしょう。今は自分をとにかく甘やかしたい気分なので、そんなことには構いません。僕は絶対に小説家ではないという事実を免罪符にして話を続けます。

 

さて、川端康成は、『散りぬるを』の中で「いろんなしたりげな意味をつけ」ることを、「まことに愛しておらなかった証拠」だと書きました。これを川端自身の主張だと読むのは安易であやうい見方だろうと思いますので、そういう考えもあるという程度の認識に留めておきましょう。

そこで僕は、『未熟な同感者』(乗代雄介)の一節を思い出しました。

 

"こうした比喩はまずもって退屈の証である。対象物への愛はもてあました暇の内に言葉を積み上げる。"

(『未熟な同感者』)

 

ここでは比喩に関して「対象物への愛」という言葉が無前提に使われています。この食い違いは愛という言葉の定義の違いによって起こったものかというと、実はそうでもないらしい。

(そもそも、「したりげな意味をつけ」ることと「こうした比喩」が同じ性質のものであるかという疑問がまずあります。僕は、同じとまでは言わずとも似通ったものではあると思います。[現象→想像→表現]のプロセスは共通しているため、それが悪だとするなら悪の性質、愛だとするなら愛の性質も共通するような気がするのです。)

 

"また、自分の文章構成への言及は、本性では比喩の入り組んだ美辞麗句を書きたがるフローベールが『ボヴァリー』を努めて簡潔な言葉で書いたことを想起させるものだ。実際、この問題については「シーモア ー 序章 ー」で、バディの小説を読んだシーモアの短評の中で言及されてもいる。"

(『未熟な同感者』)

(はじめの「自分」はシーモアのことを指す)

 

このまま『未熟な同感者』の引用で済ませるのも手ですが、せっかくなのでシーモアの言葉を参照してみましょう。以下の二つの引用は、バディの小説を読んだシーモアがバディに向けて書いたメモ書きの一部を抜粋したものです。

 

"今夜のぼくは、すべて「すぐれた」文学的助言とはまさにルイ・ブイエやマクス・デュ・カンがフローベールに、マダム・ボヴァリーを押し付けようとしたことだと確信している。実際その通りで、この二人は優雅な趣味を持ち、力を合わせ、彼に傑作を書かせたのだ。彼らは彼が心情を書きつくす機会を潰してしまったのだ。彼は名士のように死んだが、実際はそんなものではなかった。彼の手紙は読むに耐えないものだ。本来あるべきよりも、ずっといいものになっている。書かれていることは無駄、無駄、無駄なのだ。ぼくは胸がはりさけそうだ。"

(J.D.サリンジャーシーモア ー 序章 ー』井上謙治 訳  新潮文庫)

 

シーモアは、本来「読むに耐えない」手紙を書くフローベールが書いた『ボヴァリー』という傑作を、「本来あるべきよりも、ずっといいものになっている。書かれていることは無駄、無駄、無駄なのだ」と評します。

ここでは、簡潔な表現によって美しい文章が生み出されること、技術によって傑作をものにすることは(書く・読むの関係において)価値のないことだとされています。ではシーモアは何に価値を見出したか。

 

"満天にお前の星たちが全部でているというただそれだけの理由でいいからぼくが五時まで起きているようにしてくれ。それだけの理由でいい。

(中略)

ものを書くことがいったいいつおまえの職業だったことがあるのだい?それは今までおまえの宗教以外の何ものでもなかったはずだ。そうだとも。ぼくは今すこし興奮しすぎているようだ。ものを書くということがおまえの宗教である以上、おまえが死ぬとき、どんなことをたずねられるかわかるかい?だが、はじめに、だれもおまえにきかないようなことを、ぼくに言わせてほしい。おまえは死んだとき、すばらしい感動的な作品を手がけていたかと、きかれることはないだろう。それが長編なのか短編なのか、悲しいものか滑稽なものか、出版されたかされなかったかきかれることはないだろう。

(中略)

確かなことは、おまえに対して二つだけ質問が出されるということだ。おまえの星たちはほとんど出そろったかおまえは心情を書きつくすことに励んだか?もしこの二つの質問に然りと答えるのが、おまえにとっていかに容易であるかを心得ていてくれさえすればいいのだが。おまえが腰をおろして書き始めようとするとき、おまえは作家になるずっと前から読者であったということを思い出してくれさえすればと思う。この事実だけを胸におさめてから、じっと腰をおろし、一人の読者として、もしバディ・グラースが好むものを選べるとすれば、彼がどんな文章を一番読みたがっているかを自らに問うて見ることだ。その次になすべきことは、おそろしいことだが、非常に簡単なことなので、こうして書いているときもそれが信じられないくらいだ。恥も外聞もなく腰をおろして、ひとりで書くということだけだ。"

(『シーモア ー 序章 ー』)

(下線部は引用元では傍点があった部分)

 

シーモアが何よりも優先する二つの質問。それらを前にしたとき、「想像の悪」はもはや大した問題ではありません。その悪も「心情」のうちであるからです。比喩の入り組んだ美辞麗句を書きたいなら書けばいい。

川端康成が『散りぬるを』で[現象↔︎書き手↔︎文章↔︎読み手]の関係のうち、[現象↔︎書き手]を優先して(現象を絶対のものとして)「想像の悪」と書いたのに対して、シーモアは[書き手↔︎文章]の関係を優先しています。

この違いを突き詰めてゆくと根底にあるのは「同時性の状況に立」っているか=リアルタイムであるかそうでないか、の違いなのではないでしょうか。ものを書くにあたってリアルタイムであれば、書く対象物となる現象は自己に内在化されるために、現象を絶対のものとすることはできないからです。もっと突き詰めると好みの問題に過ぎないのですが。

 

『生き方の問題』に話を戻しましょう。

祥一の場合はただ「心情を書きつくす」だけではいけませんでした。なぜなら、手紙の読者は貴子であり、貴子と「完全な同感」に到ることを願う祥一の手紙は、[書き手↔︎文章]だけではなく[書き手↔︎文章↔︎読み手]の関係の中で書く必要があったからです。そのとき書くことは宗教になり得ない。

( 余談ですが、祥一は手紙の中で書かれた出来事の当時の貴子の心情を想像して書いたりなどは一切していません。このことと「想像の悪」を結び付けようかとも思ったのですが、考えてみればそもそも一人称小説は大抵の場合がそうでした。)

祥一の手紙は貴子と二人で織姫神社に行った日のことを中心に書かれています。その次の日、祥一は貴子の二人の子供(貴子は二人の子を持つシングルマザーです)のお守りを頼まれて三人で一日を過ごすのですが、その日のことは書かれていません。それも一度書いてわざわざ消したのです。

 

"実を言うと、僕はあの日の翌日の出来事 ー 貴方に子守を頼まれて、二人と一緒に足利の街に出掛けて過ごした日のことだ ー も同じくらい微に入り細を穿って書いていたんだけど、つい先ほど、それを全て消してしまったところだ。貴方は自分の子供たちのことが書いてあれば、どんなに僕の語りが衒学的で韜晦に満ちていても、張り切って読んだことだろう。それを思うと僕の胸は引き裂かれそうだ。僕との思い出は顔をしかめながら休み休み、飛ばし飛ばしに読んでいき、子供たちの日誌の如きは目を細めて一言半句もらさず読む。読者が特定の登場人物だけに興味を持っている状態というのは、作者にとって強烈に惨めなものだ。そこでぼくがどんなに子供たちに懐かれたか、弟が迷子になった危機をどう切り抜けたか開陳されていたって無意味なことに違いない。だってあの日ですら、それには貴方をなびかせる何の意味もなかったんだから。

そんな四万文字を跡形もなく消し去った今になって考えないでもないのは、僕が貴方に読ませるべきはまさにそのこと ー 最早この世のどこにもない僕と貴方の二人の子供たちの一日のこと以外にないということだ。他人同士だったはずの二人が、共に我を忘れて愛情を注ぎ、心を一つに我が子を見る。世に言う理想的な夫婦というのは、僕がさっきまでぐだぐだ書いていた望みに、あまりにも似通いすぎているみたいだからね。

僕はどこでを間違えたのだろう?それとも永遠に半ばなんだろうか?とりあえずこの手紙は、貴方のよい子たちへは辿り着きそうにない。僕は、僕と貴方に固執するあまり、二人を沈黙に押し込めると決めてしまった。このがさがさした手紙を一匹のトカゲとするなら、この先に残っているのは尻尾の根元だけだ。それはあとがきや解説を読みたがる不届きものに違いない貴方が、最初に僕の計画を読んでしまわないように添えられた全体の終わりであり、沈黙の始まりの部分でもある。その境目は、貴方の子供たちが喋り出す直前で、かなり恣意的にちょん切られている。今後は僕が口を挟むこともないだろうから、その歪に違いない切り口でせいぜい僕の断腸の思いとそれなりの希望を察してくれるよう祈っている。つまり、僕は尻尾切りを逆にやり果たせるわけだ。その身を引き裂き、活きのいい尻尾の方ではなく、じっと座って動かない、けれど確かに血の通っている我が身の方を貴方に捧げる。傍目にはあまり賢い判断とは言えないと思うけど、多分これだって生き方の問題なんだろう。"

(『生き方の問題』)

 

祥一は、貴子が自分の子供たちの登場する文章を興味深く読むことを恐れるあまり、それを全て消してしまったのです。きっとそれを読むときの貴子は、文章の中にいる子供たちを現実の子供たちと照らし合わせ、そこに書かれている姿を鮮明に思い浮かべようとするでしょう。そのとき言葉は代用の具に供される。完全な同感に到ることを目的として書かれたその手紙は、子供の様子を親に伝えるための「日誌」と成り果てる。[書き手↔︎文章↔︎読み手]の関係は崩壊し、貴子とその日の子供たちの間を繋ぐエーテルとしての文字だけが残る。それを防ぎ、文章の中で貴子と二人きりになるために四万文字を消すことの、なんと涙ぐましいことでしょうか。

しかしそれは祥一にとって、「心情を書きつくす」ことになったのか?何せ、一度は書いたのだ。確かに祥一は子供たちとの一日を書きたかった、そして書いた。それを読み手のことを考えて消す(目的はどうあれ)ことは、「星」が出そろうことから遠ざかる行為ではないか?

そこに、[書き手↔︎文章↔︎読み手]の関係の破綻があります。無理を通せば道理が引っ込む。いくら血と涙を絞って書いたところで、読み手は自らのコンテクストの中で文章「を」読むことしかできない。もう思い切って言おう。完全な同感者などいないのです。少なくとも貴子はそうではなかった。祥一はそれがわかっていたからこそ、子供たちとの一日を消したのでしょう。

 

ここまで書いてきて、いい加減僕も「完全な同感者」を求める営み、つまりは文学の営みが滑稽な一人相撲でしかないってことから目を背けられなくなってきました。祥一だって貴子が完全な同感者にはならないことがわかって、「人間関係の芸術」なんて貴子からすれば知ったこっちゃないことくらいわかって、それでも絶望の中で筆を滑らせるしかなかったのです。それは物書きの業とでも呼ぶべきものです。

相手にとっては知ったこっちゃない信条に従って人間関係を築こうとすることが、一人相撲でなくてなんだというんだ?

 

ところでこの一人相撲という便利な言葉は元を辿れば神事から来ていて、目に見えぬ豊穣の神や精霊と三番勝負をして、精霊が先に一勝し、人間が一勝し、最後に白熱の取組を経て精霊が三番勝負を制す、といった内容のものだったりするそうです。要するに精霊に対して面白く負ける行事、言うなれば接待ゴルフでしょうか。接待ゴルフと違うのは、喜ばす相手がいるかどうかが自分の心持ち次第ってとこです。

 

僕は物書きでもなければ熱心な読書家ですらありませんが、二十余年かけてじわじわとそういうせせこましい世界に近づいて、気づけば土俵に上がっていました。どうやらはじめの一番はもう終わって、周りを見渡す限り僕はそれに敗れたようですが、さて、次の一番をどう戦おう?今は、その退屈な行事を面白くしようと引き延ばしてはいけないような気がしてならないのです。そして同時に、そんなことを思うやつに文学の才能はないだろうという考えが深い深い安堵をもたらしてくれるのを感じます。僕は想像の悪に塗れることなく ー あるいはそれに無自覚なまま ー 生きていけるだろうし、星なんかまったく出そろわなくたって満足に死ねるだろうから。

いつでも好きな時に土俵を降りていい。どれだけ迫真の演技で戦っても、「迫真の演技」でしかない。観客の誰も精霊の姿なんて見ちゃいないだろう。あるいは僕の姿すらも。そしてなにより重要なのは、僕自身精霊の姿が見えなくなってきていて、さっさと帰りたがってるってことだ。初めから面白くしようなんて考えちゃいけなかったんだ。空疎なら空疎を、退屈なら退屈をそのまま受け入れるべきだった。形式なんかどうだっていい。ごまかさなきゃいい。

乗代雄介『生き方の問題』(群像 2018年6月号)4

シーモアの言うとおり、ゲティスバーグで演説をするときは「聴衆に向って拳を振って、そしてそのまま退ってゆくのが本当だ」としたら、書かれている意味内容を追体験させるための修辞は本質的には無意味なものになるように思えます。

 

"一般に、私達の日常においては、言葉は専ら「代用」の具に供されている。例えば、私達が風景について会話を交す、と、本来は話題の風景を事実に当って相手のお目に掛けるのが最も分りいいのだが、その便利が無いために、私達は言葉を藉りて説明する。この場合、言葉を代用して説明するよりは、一葉の写真を示すにしかず、写真に頼るよりは目のあたり実景を示すに越したことはない。

かように、代用の具としての言葉、すなわち、単なる写実、説明としての言葉は、文学とは称し難い。なぜなら、写実よりは実物の方が本物だからである。

(中略)

言葉には言葉の、音には音の、そしてまた色には色の、おのおの代用とは別な、もっと純粋な、絶対的な領域が有るはずである。

と言って、純粋な言葉とは言うものの、もちろんその言葉そのものとしては同一で、言葉そのものに二種類あると言うものではなく、代用に供せられる言葉のほかに純粋なものが有るはずのものではない。畢竟するに、言葉の純粋さというものは、全く一に、言葉を駆使する精神の高低によるものであろう。高い精神から生み出され、選び出され、一つの角度を通して、代用としての言葉以上に高揚せられて表現された場合に、これを純粋な言葉と言うべきものであろう。

( 坂口安吾『FARCE に就て』)

 

(この、ただの代用ではない純粋な言葉による交流を目指すところに「人間関係の芸術」があるのかも知れない。やはり挨拶だけでは交流とは言えない。こんな風にして僕の考えはこれからも二転三転していくのだろうと思う。)

 

追体験などたかが知れている。内容によって読者の(本来一回きりの)感情が再生されたとして、その時文章は感情を再生させるための引鉄でしかなく ー それはあくまで読者がそれまでに体験してきたものに準拠するものであるから、作者・読者を同感へと導くものではありません。

 

"ケニーは過度に興奮する子供で、何を読んでも自分に関わる意味を読み取ってしまう。そして、文学を成り立たせているほかのすべてのことを無視してしまう。"

( フィリップ・ロス『ダイング・アニマル』)

 

そんな考えを、シーモアをカウンセリングした医者は「完全性コンプレックス」だと感じとったのでしょうか。

 

ここに一つの光明があります。それが「リアルタイム」です。「完全性コンプレックス」という病気に対して「リアルタイム」は有効に働きます(あるいは、リアルタイムを求めるからこそ完全性コンプレックスに陥る)。

繰り返しになりますが、リアルタイムである限り、書くときの実感は書くことであり、読むときの実感は読むことそのものです。そして読むことが書き手の実感を得ることに直結する場合、読むことと書くことは文章の上で一致します。完全な同感はその時にこそ訪れます。そしてそれを可能とするのは、読書を運動する言葉として読み書きの分別なく体験する「読書の素人」なのです。

その営みは情報処理そのものと言えます。「完全な同感者」とは、情報処理を使命とする人間すなわち「人間関係の芸術家」でもあるということです。

 

では、祥一はどのように体験し、どのように書いたか。あるいは、書くことをどのように体験したか。

 

"貴方の後について本殿へ向かう。賽銭箱の前に立ったところで、僕は貴方に礼拝作法について訊ねた。

「いつもわからなくなるんだよ」

「あたしもわかんないよ」と貴方は言った。「ごまかさなきゃいいんだよ」

高々と賽銭投げてそのまま合わせた手を眉間にあてる。深い穏やかな目のつむりで一心に祈る姿に見とれた僕は、何も願いをかけられなかった。ただ漫然と手を合わせて、そこに立っていたのだ。ごまかさなきゃいいんだよという言葉だけが頭の内に繰り返されていた。

こんなことは大した罪滅ぼしにもならないだろうが、僕は良しとされるいくつかの作法を知っていた。訊ねたのは、貴方に先んじないようにするためだ。ところが間違っていたのは僕の方なんだな。つまるところ「ごまかさなきゃいい」という以上に大事なことなんて何一つとしてない。"

(『生き方の問題』)

 

"僕も貴方もゆめゆめ我を忘れてはならないんだ。そのためには、あの実際はどう絡めたのかも覚えがない舌を今も試しに動かしてみることができるのは、今この時の「我」だけなのだという事実に目を背けなければ ー ごまかさなきゃ ー いい。これを書き終えられるのも、読み終えられるのも、一番外にいる僕と貴方しかいない。僕たちは二人きりなんだ。"

(同上)

 

祥一はまさに今書いており、貴子はまさに今読んでいる。それはリアルタイムであり、マルチタスクでもあります。「歴史を遠ざけ」「同時性の状況に立」ったとき、漫然と手を合わせて突っ立っている祥一と、それを見るもう一つの目がある(マルチタスク)。それは小説家のまなざしです。あらゆる物事を現象界から叡智界へ持ち去ってやろうと目論むもう一つの目。

 

"「さっきのあれさ、あたし、バチが当たっちゃったって思っちゃったんだよね。神様がいるか知らないけどさ、ちゃんと見てるんだなって。そんなことするなってことなんだよ」と貴方はしばし黙りこんだ。そして言った。「ごめんね」

迷信深い女らしい発言を僕は苦々しく聞いていた。あんなことに何の意味もないと言おうとして、だからそれは間違ってると言おうとして、それを言ったらどうせ悲しむと思ったら、言葉にならなかった。

それをこうして書いてしまえるのが僕の卑怯だ。だからあの時、崖の上から僕と貴方を見てうっかり音を立てたのは、今これを書いている僕のような卑怯者だったに違いない。というのも、過去の出来事が書かれる時、そのまなざしは、実際にその出来事が起こった時もそこにあるというのが、今の僕のおめでたい実感なんだ。あの時、すんでのところで上空から向けられたまなざしが貴方の言う「神様」なら、あの出来事を書こうと一帯の文字に目を落としている僕こそまさにそれなんだ。ところが「神様」は、まなざしとゆるく結ばれた手の動きで始まりと終わりを隔てる以外は完全な無能力ときてるから、二人に手を下したりはしない。ただ粛々と、面白みのない悲劇でも喜劇でもないを、時間から切り離されたものとして、目にしたまま書き続けるだけだ。

何を言っているのかわからないかも知れないけど、つまり、いつか全てが書かれるという受身・尊敬・可能・自発を全て含んだ助動詞的確信を持って生きる僕のような者は「神様」の存在に思いを寄せずにはいられないわけだ。"

(下線部は引用元では傍点があった部分)

 

その出来事が起こった時に、それを見つめ・書くまなざしが既にそこにある ー すなわち、出来事とそれを書く時、すらも、文章の上では同時であるということか。

ならば小説家というやつは、常に「書く」まなざしを持ったまま現実との二重時間を生きるなんとも因果な生き物だ。

 

"「よく眠っていたものだな。」

そこで私は、偶然を偶然として描いて、読者に必然の思いをさせるのが、この際の小説家の手腕であると知りながら、やはりなにか必然を道案内人に立てたくてしかたないのは、私がやくざな小説家だからであろうか。殺される者の心理が、知る人もなく消え失せたとすれば、私はただ彼女等について、私の夢を織ればいいのであって、反って好都合なのに。

「よく眠っていたものだな。」という言葉さえ、素直に信じられないのは、そのようなさがゆえ所詮女をまことに愛することも出来ないほどの、我が身の因果であろうか。"

( 川端康成『散りぬるを』)

 

"「二人が脆く殺されたことに、お前が責任を感じないでか。お前はこの殺人事件を無意味なゆえに美しいと見たがりながら、いろんなしたりげな意味をつけた。二人の女をまことに愛しておらなかった証拠と知るがよい。この殺人を、三人の生涯になんの連絡もないもの、三人の生活になんの関係もないもの、つまりこの一つの行為だけが、ぽかりと宙に浮かんだもの、いわば、根も葉もない花だけの花、物のない光だけの光、そんな風に扱いたかったらしいが、下根の三文小説家に、さような広大無辺のありがたさが仰げるものか。ざまをみろ。」

「おれは小説家という無期懲役人だ。山辺三郎のように、そのうち女でも殺して獄死するだろうさ。」"

(同上)

 

川端康成には、殺された女(川端の弟子とまでは言わずとも、家などの世話をしてやった女であったらしい)の死をまともに悼むことすらできません。彼の持つ小説家としてのもう一つの目が、悼もうとする彼の後頭部の少し上の中空に浮かんでいるからでしょうか。それとも、死をまともに悼むことができない性格がその目を生み出したのでしょうか。ともあれそんな人間が現実の生活で真に幸せを得ることはとてもとても難しいことでしょう。

川端康成は、書くことのために現実を歪め、想像で補完し、文字という媒体に落とし込むことを「想像の悪」と呼びました。ああ、川端は果たしてリアルタイムであっただろうか。そのまなざしを「想像の悪」などと称する必要など、本当は無かったのではないか。

 

その辺りのことはシーモアが話してくれそうな気がします。

続きます。

乗代雄介『生き方の問題』(群像 2018年6月号)3

前回の記事の最後に「簡潔であることや平易であることを美徳とするなら」と書きましたが、考えてみるとそのような前提を置く必要はまったくありませんでした。勢いで適当なことを書いてしまいました。

とは言っても、交流それ自体を目的とする人間同士の会話の行き着く先は「おはよう」の応酬なのか?という疑問は依然としてあります。

今の気持ちを率直に言うと、「多分そう」です。

前回は「そんなわけないだろ!」と書きましたが、今は「おはよう」ほど純粋に交流を目的とした言葉はないと思います。やっぱり挨拶って素晴らしいものだね。

 

それはさておき、今年の6月頃に乗代雄介の『生き方の問題』を読みました。

この小説は、祥一という青年が従姉であり想い人である貴子へと送る手紙という形で綴られます。

 

"これを読まなくちゃ ー 今まさに貴方が読み始めた、世にも珍しいエピグラフ付きの手紙を、そんな風に認識したのはいつだった?昨日か今日か、それよりずっと前か。"

(『生き方の問題』冒頭より )

 

前回紹介したキェルケゴールの言葉をエピグラフとして始まるこの手紙は、上に引き写した書き出しに象徴されるように、それを書いている「僕」と読んでいる「貴方」という二者の存在を強く意識しながら綴られます。

 

"かと言って、僕はその答えを知りたいわけじゃないし、そもそもこの手紙が貴方の家の郵便受けに届く日(二◯一八年七月七日)も知っている。なにしろ僕自身がそのように指定する張本人だし、今貴方がこうして読んでいるということは、僕が立派にやり遂げたってことに違いないんだから。"

 

キェルケゴールのいうように「歴史を遠ざけ」「同時性の状況に立」った場合、手紙を書いている「僕」の時間とそれを読んでいる「貴方」の時間は文章の上で同時であるといえます。(あるいはそれこそがこの手紙の目的なのか?)つまりこの手紙は、「僕」がそれを書いている時どこかに存在している「貴方」に向けて書かれたものではなく、それを読んでいる時の「貴方」に向けられたものであるということです。そもそも文章というものは本質的にそのようなものですが、書き出しであえてそれを意識させる「僕」の意図を、読み手である私(この小説の読者)は汲み取ってやらなきゃいけないように思えます。私は書き手(祥一)の想定する読み手(貴子)ではなく、それを盗み見る傍観者でしかないのだから。せめてそのくらいはしてやらないと。

 

ご丁寧にも乗代雄介は、手紙の形で書かれる小説について、前作『未熟な同感者』でじっくり論じてくれています。

 

"サリンジャーは「ハプワース」で、読者を両親役、つまり書き手に感情移入しない立場に据えた。それによって、読者は配役の上では「両親が児童に対するの態度」で読むことになるが、それは同時に、シーモアの手紙が、また「ハプワース」という小説が書かれた態度でもあるのだ。

(中略)

この時、七歳という「設定」を際立たせる最も簡単な方法は、子供からの子供じみた作文にしてしまうことだろう。しかし、それでは逆に、親と子が乖離し、そこに書かれた「子供らしさ」を追懐する可能性が高まってくる。それでは、読者を「書く行為」の体験から遠ざかることになる。"

( 乗代雄介『未熟な同感者』)

(「ハプワース」…J.Dサリンジャーの小説『ハプワース16、一九二四』七歳のシーモアがキャンプ地から家族に送った手紙をシーモアの弟バディが引き写すという形で書かれた)

 

作品と作者を安易に結びつけるのはあまりいい趣味とは言えませんが、ここまであからさまだと許されるでしょう。

僕は、いささか頭でっかちにも感じられた『未熟な同感者』は、『生き方の問題』の読者のための啓蒙であったのではないかとすら思います。しかし、「ハプワース」が読者に「両親が児童に対するの態度」を求めたのと同じように『生き方の問題』が読者に「貴方(貴子)」の態度を求ているかというと、それはそうでもないような気がします。

 

"すると、「大工よ」の献辞における「読書の素人」とは、赤子のフラニーに象徴される、読書を運動する言葉として、読み書きの分別なく体験する者たちに宛てられた言葉のように思えてくる。サリンジャーが小説を捧げたいのは他でもない、そのような読者たちなのだ。"

(『未熟な同感者』)

(「大工よ」…J.Dサリンジャーの小説『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』)

 

"僕は自分の書きぶりについては重々承知してるけど、貴方が幼少期からどれくらいこうした文章に親しんだかどうかについては、全く雲を摑むような話なんだ。この事実は、つまり僕が貴方の読み手としての素性を何も知らないというのは、僕と貴方、どちらを有利にしているんだろう?書き手はいつも、書いたものを一刻も早く読み終えて欲しいと願うべきなのか、こんなのもううんざりって貴方が手紙を畳んじゃうならそれを甘んじて受け入れるべきなのか?まとめると ー 貴方のおつむに、僕はどう寄り添えばいい?それとも、そんな必要ないのかな?"

(『生き方の問題』)

 

(『未熟な同感者』での言葉を信じるなら、)サリンジャーが「ハプワース」で読み手に一定の態度、つまり「読書の素人」たることを求めたのに対して、『生き方の問題』の手紙は読み手である貴子が「読書の素人」であるかを確認せずに進んでいきます。

シーモアの手紙の読み手はシーモアの両親です。読者はそれを思い「親が子に対するの態度」で「ハプワース」を読むことが求められています。では祥一の手紙を貴子はどういった態度で読むのか?従弟に対するの態度?そんなんある?

つまり、祥一の手紙および『生き方の問題』は、読者のことなんてわかったもんじゃないという前提の上に書かれているのです。これは祥一の、あるいは乗代雄介自身の諦念といえるでしょう。

 

このとき諦念とは何に対してのものなのかというと、「完全な同感者」を得ること、です。

 

"憧れの従姉に手紙を綴る僕は、頼りない文字を媒介に一緒になりたいと願う。"

(群像2018年6月号 目次より)

 

『生き方の問題』が群像に掲載された際の紹介文です。「一緒になりたいと願う」ことはすなわち、貴子を「完全な同感者」たらしめようとすることでしょう。では、「完全な同感者」とは?

 

"テクスト論とは、血も涙もないものでも、手抜きの研究者が守備範囲を絞るために用いるものでもないのである。理想を浪漫に和えて言うなら、むしろ血と涙をしぼった書くという体験のなかに、作者と読者を三位一体にするものなのだ。その時、他動詞ではなく、自動詞としての「読む」が呼び出される。そして、それは自動詞の「書く」と全く同じものなのである。

(中略)

書いた読んだの関係における「完全な同感者」とは、そこに書くという体験の産物すなわち文字しか存在しない限り、作者のことを忘れて「読む」ことで、自動詞の「書く」を同じ強度で体験する者でしかないのだから。"

(『未熟な同感者』)

(テクスト論…文章を作者の意図として読むのではなく、文章それ自体を独立したものとして読むべきであるという考え方)

 

祥一にとって「書く」ことは他動詞ではなく自動詞としてあります。何を書くかが重要なのではなく、書くことそのものが重要なのです(やっと、文学の本領は社会批判ではないという話に戻ってこられた気がします。社会批判は他動詞としての「書く」の対象物にはなり得るが、自動詞の「書く」の目的ではない)。

「完全な同感者」とは、自動詞として書かれた文章を読む、すなわち「書く」という体験そのものを共有する(決して、書かれている内容を追体験するのではなく)人間のことを言います。そのとき、読むことは書くことと同義になります。

もちろんこれは極論です。しかし、「完全」を求めるのであれば極論を振るうしかない。

 

"ゲティスバーグでは五万一千百十二人に上る死傷者が出た。その記念日に誰かが演説をしなければならなくなったとしたら、その人は前に進み出て、聴衆に向って拳を振って、そしてそのまま退ってゆくのが本当だ ー もしもまったく正直な人間ならばそうあるべきだ、僕はそう言ったのである。それを言うと彼は、ぼくの考えに賛意を示さず、ぼくがある種の完全性コンプレックスを持っていると感じとったらしかった。"

( J.Dサリンジャー『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』)

 

シーモアもこう言ってる。聴衆に向って拳を振ってそのまま退ってゆくことは、意味内容を伴わない「おはよう」なのではないか?

文学を志す人間というのはどうしても大まかな理解や共感を認めないものらしいです。それらをよしとする「未熟な同感者」に背を向けて、「書く」という体験を共有することそのものを目的に書き続けるしかない。

 

ようやく、「情報処理を使命とする」人間すなわち「人間関係の芸術家」の話と繋がってきました。続きます。

乗代雄介『生き方の問題』(群像 2018年6月号)2

"歴史を遠ざけよ。同時性の状況に立つのだ。これが基準である。私が同時性を基準にして物事を裁くように、私もまた裁かれるのである。背後に流れる無駄話はすべて幻想だ。"

(キェルケゴール)

 

『生き方の問題』の冒頭にエピグラフとして引用された、デンマークの哲学者キェルケゴールの言葉です。僕はキェルケゴールに関して、『死に至る病』の人、という知識くらいしかありません。これだけでは理解が難しかったのでネットで少し調べてみたところ、こういった文章を見つけることができました。

 

"キリストは(わたしはこれを大まじめで言っているつもりだ)楽しいお芝居をやってみせてくれる役者ではない。またたんなる歴史上の人物でもない。かれは背理として最高度に非歴史的人物であるからだ。

しかし、同時性こそ、詩と現実を区別するものである。

詩と歴史の相違は、歴史が現実に起こったできごとであるのに対して、詩は可能性、空想、創作という世界の産物であるところにある。

ところで現実に起こったこと(過去のできごと)といっても、それは或る特定の意味での、すなわち詩の世界に対立する意味での現実にほかならない。そこには、真理(内面性――たましいの問題――としての)の、そしてまたすべての宗教性の特質である、「きみ自身にとって」という性格が欠けている。

過去のできごとは、「わたし自身にとって」の現実ではない。同時的なるものだけが、わたしにとっての現実である。きみがそれと同時にあって生きているものが、きみにとっての現実である。そしていかなる人もこのようにして、ただ自分がそこにあって生きている時(時代)に対してしか同時的になれないのである――もしも、あのもう一つのものと、すなわち地上におけるキリストの生涯と同時的になることがなければ!なぜなら地上におけるキリストの生涯は、聖なる歴史として、歴史のそとに、ただひとり聳え立っているからである。"

(『キルケゴール著作集17 キリスト教の修練』)

 

これを読んで、『生き方の問題』の前作である『未熟な同感者』で引用されていた二葉亭四迷の言葉を思い出しました。

 

"例えば此間盗賊に白刃を持て追掛けられて怖かったと云う時にゃ、其人は真実に怖くはないのだ。怖いのは真実に追掛けられている最中なので、追想して話す時にゃ既に怖さは余程失せている。こりゃ誰でもそうなきゃならんように思う。私も同じ事で、直接の実感でなけりゃ真剣になるわけには行かん。ところが小説を書いたり何かする時にゃ、この直接の実感という奴が起こって来ない。人生に対するのが盗賊に追われた時の心持ちになって了う。"

( 二葉亭四迷『私は懐疑派だ』)

 

堂々と孫引きするのは憚られるような気がしますが、引用態度なんて知ったこっちゃねえという気持ちでいます。

長い引用の後、『未熟な同感者』の本文はこう続きます。

 

"サリンジャーの過酷な戦争体験を読む時、描かれた戦争が私たちの体験の一つに数えられることはない。もちろん、読むことで自分の体験を思い出すこともあるが、その体験すら過去、つまり文章の外にある。

では、文章を読んでいる時、実際に今ここで体験可能なものはなんであろうか?それは、目下にある文字の並びしかありえないのだ。そして、それだけで十分なのだ。"

( 乗代雄介『未熟な同感者』)

 

キリストの言葉を読むとき、その生涯を思うとき、それは「きみ自身」にとって、歴史ではなく詩としてあるでしょう。キリストの言葉を読む時、「読んでいる」という実感以上のものはあり得ないのだから。人間がリアルタイムでの情報処理をする生き物である以上、「同時性の状況に立」たずに何かをすることはできない。

 

この「リアルタイム」「情報処理」というのは、前回引用した『IMONを創る』から表現を借りました。それっぽいことを言うために人の言葉を捻じ曲げちゃいないかという不安を抱えたまま、勢いに任せて話を続けましょう。

 

"なぜならすべての生き物は"情報処理"こそ本来の姿だからである。

極論すると、処理するのが務めであって"正しく"と言うのが、務めではないのである。情報処理の停滞が起きたとき、生き物もビッブもおかしくなる。

ちなみにワタシの事務所である"IMO"の社訓はこうだ。

①一生やる

②なんでもやる

③ほっといてくれ

これを正しいと言わずして、何を正しいと言うのか。"

( いがらしみきお『IMONを創る』)

(ビッブ…「ビットブレイン」の略。一般的に言うところのパソコン)

 

恥を忍んで告白しよう。僕が『IMONを創る』を読んだのは、乗代雄介が自身のブログで紹介していたからです。僕が何かを読んだり思ったりしたことは、とてもとても狭い範囲で誰かに手を引いてもらって得た体験でしかありません。

それはさておき、いがらしみきおは、現代人を病気とした上で、「リアルタイム」は病気にかかったまま生きていく方法の一つだと言います。その根拠が前回の記事で引用した文章です。

現代人にとって一番の問題は「人間関係」であるといがらしみきおは言います。なるほど現代人が情報処理をする局面というのはすべて人間関係に集約されそうです。

①人間の使命は情報処理である

②情報処理はリアルタイムでなければならない

③現代人の一番の問題は人間関係である

この3つに従うと、人間関係に対してリアルタイムであることが現代人のあるべき姿だということになります。

 

"すなわち、"人間関係"は、ここにきて"作品"になるということだ。"

(『IMONを創る』)

 

ここで、乗代雄介がブログで『IMONを創る』に関して述べた文章の一部を参照してみましょう。高校時代に寝る間も惜しんでこの膨大な文章量のブログを片っ端から読み漁ったことが今の僕に悪影響を及ぼしている気がしないでもない。

 

"僕はこの本を読んだ時に、初めてカントが腑に落ちたような気持ちがしたのでした。

 

あなた自身の人格にも他のあらゆる人の人格にも同じように備わっている人間性を、つねに同時に目的として用い、けっして単なる手段としてだけ用いることのないように行為しなさい
(『人倫の形而上学の基礎づけ』第2章)

 

 カントが言うのは「作品に対する芸術家のように、熱く、そして醒めながら人間関係に接さねばならないだろう」ということに他ならないのではないでしょうか。
 芸術家は、その作品を創ることを「目的」とし、創られた作品を「手段」として金銭や人脈を得たいわけではない。そんな者がいたとして、そんな者は芸術家と呼ばれはしない。
 人間関係も、そのように「目的」と捉えなければならないのです。"

( のりしろ『ワインディング・ノート25(『IMONを創る』・いがらしみきお・カント)』-ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ )

http://norishiro7.hatenablog.com/entry/2015/02/22/180000

 

"熱く、そして醒めながら人間関係に接さねばならない。
  それはリアルタイムであり、マルチタスクでありました。何か問題が起こったとして、それこそ人生が破綻しそうな大問題を抱えていても、朝がきたら起きて、 お腹がすいたらご飯を食べる。別の事をしているときに前の仕事を引きずってはいけません。これにより、ごはんを食べているときは、大問題の悩みから解放されます。リアルタイムを生きる限り、正しいも間違いもないのだから、悩んでいる意味はないのです。
 そして、女がいたら、その女は、女との人格の交流は、性行為のための「手段」となってしまいかねない。そんなことでは良くないのです。"

(同上)

 

交流を手段とすることが双方の幸せになることだってある、という事を僕は最近ようやく知ることができたのですが、どうやら知るのが遅すぎたようなので、とりあえず今は乗代雄介といがらしみきおとカントを信じようと思います。

人間関係を目的と捉えることは、情報処理をその使命とすることとほとんど同義であろうと思います。

 

"離ればなれの僕らは

誰の力も借りずに  ほら、ちゃんと出会えたじゃないか

間違ってなかった  歴史はすべて間違いじゃなかった

そうだ  二人の距離、それがこの世界の直径

そしてそれを縮めていく、人類の歴史"

( 毛皮のマリーズ『愛のテーマ』)

 

"ただ 私のかなしみはこの世界の犠牲ではなくて  それ自体が喜び"

( 大森靖子『アナログシンコペーション』)

 

これらこそ、「情報処理を使命とする」人間、すなわち人間関係の芸術家の姿勢ではないでしょうか。僕がここまで3500字ほど費やして、他人のすぐれた文章を借りて借りて、結局自分の言葉では書けなかったことを、志磨遼平と大森靖子はなんて簡潔かつ平易に言い表してくれるのでしょう。こういう人たちが現代に生きて音楽をやっているというだけで世の中捨てたもんじゃねえなって思える。機嫌のいい日は。

 

しかし、簡潔であることや平易であることを美徳とするなら、交流それ自体を目的とする人間同士で交わされる最上の会話は「おはよう」の応酬になってしまわないか?「人間関係を作品とする」という思いは、「愛がすべてさ」なんていう言葉に言い換えられてしまうのか?

考えるより先に感覚が、そんなわけないだろ!と強く否定してくれました。おそらく僕がその感覚を持ったのは文学のせいなので、『生き方の問題』が、そんなわけないだろ!の根拠となってくれることを信じて、次回から本題に入ります。

乗代雄介『生き方の問題』(群像 2018年6月号) 1

文芸時評】8月号  早稲田大学教授・石原千秋  正しいことを言うときは  相手を傷つけやすいものだと

https://www.google.co.jp/amp/s/www.sankei.com/life/amp/180729/lif1807290016-a.html

 

「文学は体制を批判するもの」なんて言い切ったら、文学は一気につまらないものになってしまいませんか?「文学研究のポリティカルコネクトレスは嫌いだ」と言うなら、そんな社会に依存した考えを持たないでよ。体制への批判なんてものは所詮体制に依存した考えで、『美しい顔』が強い批判力を持っていたとしてもそれは副産物でしかないのです。岩城京子が現代演劇を「周縁メディアだからこそ客観的に中心を眺めることができる」と言ったように、文学もまた周縁から中心を射抜く一矢となり得ることは疑いませんが、あくまで「なり得る」だけであって、「文学は体制を批判するもの」だなんて言い切られると、それは違うよって気分になってしまいます。

現代っ子である僕の目から見ると、体制を批判するものとしての文学の役割はすでに終わっています。

 

"神里雄大と村川拓也(一九八二年生まれ)が大学に入学した時点では、ウェブに常時接続できた日本人は、まだ三割強である。なおネット常時接続の有無が、影響を及ぼしているかどうかは定かでないが、神里・村川のふたりと本書で採り上げる他の作家たちとのあいだには、明らかに想像力の断層線が横たわる。

その差異を平易に述べるなら、前者二人がおのれの身体を「距離計」のように利用して、自分と事象とのあいだの距離を、客観的に計測しつつ作品にアプローチするのに対し、ほかの多くの作家たちは、身体をいわば「地震計」のように用いて、自分はあくまでもおなじ場所に居座り、その場で時代の振動を受信して、事象自体を自分の肉体に内在化してしまっている。"

( 岩城京子 編『日本演劇現在形 時代を映す作家が語る、演劇的想像力のいま』序論より )

 

「文学の役割」と言いながら演劇の話を持ち出すのは筋違いもいいとこですが、この話は文学にもあてはまる事のように思えます。

インターネットの普及によって、人々の頭脳空間は無際限に拡大し、「ここ」という空間的連続性は失われました。東京は急速に変貌をし続ける不定形な情報の集合体です(地方でも、インターネット常時接続によって人々は二重の時間を同時に過ごしています。ネット空間における東京と地方の差は、その二つの時間の結びつきが強いか弱いかの差です)。大量で雑多な情報(その中には当然、様々なイデオロギーが含まれている)が常に身体を通過してゆく日々は、自分と他者との明確な境界線をあやふやなものにさせます。それが、「事象自体を自分の肉体に内在化」させることでもあります。

「体制」も「他者」の一つであるとするならば、主観的視座において、体制は批判するべきものでも、善悪・正誤の判断をするべきものでもなく、ただ「(自分の内部に?)ある」ものでしかないのです。

あと僕の好みの話なのですが、何かしらの主義主張をしてくる文学作品って死ぬほど退屈じゃないですか?芸術を道具として使っている感じがして。だからプロレタリア文学とか読む気がしないんですよね。

 

しかし冒頭の記事を書いた石原千秋という人は、文学ひいては芸術を社会的メッセージとしか取ることができない人のようです。だから藤田貴大の『BOAT』を非寛容に対する批判だと見てしまう。

BOAT』の主軸を非寛容だとすると、その描き方が単純すぎてつまらない。それよりも、終盤の「名前のない土地」や「舞台に立っているのも、客席でそれを見ているのも私だった」といった台詞を頼りに物語を遡った方が面白い。そうして見ると、絶望の中で人はどう生きるか?という、より普遍的な問題が立ち上がってきます。

 

"我々は往々にして「正しい」、または「まちがった」という言葉を使うが、情報処理をその使命として生きるものに「正しい」も「まちがう」もないのではないか。

みなさんも不安だろうから、ワタシはひと思いに言ってあげよう。我々は「正しいこと」なんかできはしないのだ。できるのは「すべきである」決断と行動という情報処理だけである。そして、その結果が正しくなかったとしても、我々はリアルタイムであることをやめてはならないだろう。それに続く「すべきである」決断と行動という情報処理を、継続するしかない。いかなる問題が起ころうとも、「しない」ことによって解決しようとしてはいけない。常に「する」ことで解決するしかないのだ。やめるな!一生やれ!なんでもやれ!ほっといてくれ!"

( いがらしみきお『IMONを創る』)

 

いがらしみきおの言葉(一応言っておきますが、やらなかった後悔よりやった後悔なんていう話じゃないですよ。一応)を思い出した時、「舞台に立っているのも、客席でそれを見ているのも私だった」という台詞が腑に落ちました。

人間の持つ機能の根幹を情報処理だとすると、あらゆる他者や環境は情報として自我に内在化されます。その時他者は自分自身であると言えます。ならば絶望する必要はどこにもありません。自分も、自分ではない誰かも、非寛容でさえも、すべて自分であって自分でないからです。

 

"象が大きいのは、何か他の物ーー犬とか女の人とか、そういったものと並べたときだけ言えることでね

(中略)

つまり、もしも草は緑だと教えると、子供たちは初めから草をある特定の見方ーー教えたそのご当人の見方ーーで見るようになっちまうーーほかにも同じようによい見方、いやもっとはるかによい見方があるかもしれないのにさ……よく分かんないけどね。ぼくはただ、両親やみんなが子供たちにかじらしたりんごを、小さなかけらの果てまでそっくり吐き出さしてやりたいんだよ

(中略)

ある物がある態度をとる代わりにある形で存在するからといって、それが無知蒙昧の理由にはならないさ"

( J.D.サリンジャー『テディ』)

 

そんな感じで、森羅万象をただ単に森羅万象でしかないとした時、あらゆるものを記号化してしまう自分の脳に疑いを持った時、「文学は体制を批判するもの」なんて口が裂けても言えなくなるのです。文学の本領は社会批判でも啓蒙でもないのです。当たり前だろ!では本領とは?

 

そんな風なことを考えていたら、乗代雄介の『生き方の問題』を読み返したくなったので、読み返してみることにしました。

今までのは全て前置きです。続きます。

北条裕子『美しい顔』(群像 2018年6月号)

今年の6月に「お、乗代雄介の新作が載ってるじゃん」と思って買った群像に、群像新人文学賞受賞作としてものすごい小説が掲載されていて度肝を抜かれてしまいました。

北条裕子の『美しい顔』は、群像新人文学賞の受賞後、芥川賞にもノミネートされ、受賞の期待が高まる最中、表現の無断借用が発覚し、大きな話題となりました。

 

https://www.sankei.com/smp/life/news/180629/lif1806290021-s1.html

(事件の概要をまとめた記事)

 

問題が明らかになる前に読み、興奮していた身としては、ひえ〜〜という感じでした。正直ちょっとがっかりもしました。剽窃自体よりも、そんなことでこの小説の価値が損なわれてしまうことにです。今後『美しい顔』を読む人には、このスキャンダラスな事件のイメージを抜きにした読書体験が訪れることはありません(新潮社が講談社をバキバキに批判している文章とかあるし、ゴシップとして楽しむ気持ちもわからなくはないですが、自分が良いと思ったものが馬鹿どもの言葉で汚される様を見るのは気分のいいものではありませんね。著者である北条裕子が若く美しい女性であることも騒がれる要因の一つのようです。本当に最悪)。そのことが本当に悔しくなるほど、この小説はすごい。

稀に、「作者はこれを書かずにはいられなかったんだろうな」と思わせる熱量を持った小説があります(樋口一葉の『たけくらべ』や『にごりえ』、太宰治の『人間失格』などはその代表的な例でしょう)。『美しい顔』は、新人らしい荒さがありながら、それすらも魅力に変えてしまうほどの情熱的な文章でラストまで読者をぐいぐい引っ張っていくような力がありました(同号に掲載されている、乗代雄介の四作目の中編『生き方の問題』が、デビュー作『十七八より』にあった熱を失ったかわりに円熟味を増したことと対照的でした)。

 

 

"小説を書くことは罪深いことだと思っています。この小説はそのことを特に意識した作品になりました。それは、被災者ではない私が震災を題材にし、それも一人称で書いたからです。

実際、私は被災地に行ったことは一度もありません。とても臆病で、なにもかもが怖く、当時はとても遠くの東京の下宿から、布をかぶってテレビを見ていたのです。現実が恐ろしくてしかたがなかったのです。

(中略)

そのくせです。

実際に時が過ぎ、テレビでも震災のことはあまりやらなくなり、状況が静まりかえってから(あくまでも静まりかえったようにみえてから)その間にさんざん溜め込んでしまったなにか得体の知れない不快なものを、私は私の中に自覚しました。それはおそらく憤りでした。"

(北条裕子 受賞のことば 群像2018年6月号掲載)

 

受賞のことばにある通り、この小説は被災者の一人称で書かれています。その視点から、震災を取材に来る人たちやボランティアに対しての憤り、屈折した感情が生々しく描かれています。

 

"なぜ私はお前なんかに見せてやらなければならない。なぜお前なんかにサービスしてやらなきゃならない。なぜ私がお前なんかを気持ちよくさせてやらなければならない。プロカメラマンになったような気持ちよさを、なぜお前なんかにくれてやらなければならない。かわいそうを撮るなら金を払え。かわいそうが欲しいなら金を払え。被災地は撮ってもタダか。被災者は撮ってもタダか。(中略)かわいそうにかわいそうにって涙流して気持ちよくなりたいなら家でやれ"

(『美しい顔』本文より )

 

冒頭からこんな調子なもんだから興奮しますね。

主人公は顔のきれいな(そしてそのことを自覚している)被災地の少女です。津波によって母親の消息が不明になり、希望を捨てずに母親を探す美少女としてテレビに取り上げられます。皮肉にも著者自身もその騒がれ方をしてしまったわけですが。ああ、こういう時に美少女だとかが外せない要因なんですよね世の中っていうのは。美人すぎる〇〇とか、ふざけんなよ。

当事者ではない私達は、いくら被災者のことを思って心をいためても、結局それは自分が気持ちよくなってるだけなのかも知れません。映画を見て涙を流すことと同じで。当事者ではないという絶対的な壁がある限り、私達の心の中では震災もタイタニックも似たようなものなのかも知れません。小説だって同じことです。

つまり、『美しい顔』は、当事者ではない人間が事実をコンテンツとして消費することを糾弾しながら、この小説自体もその誹りを免れないというねじれた構造になっています。この矛盾こそが凄味を生んでいると言っても差し支えないでしょう。テレビを、報道を、自分自身すらも巻き込んで、人間全体を告発しようというのです。

 

ところでこの小説は、正直言って終盤あんまり面白くありません。主人公が葛藤を乗り越え、現実の生活を始めようとしたあたりからあんまり面白くありません。物語がご都合主義になってくる感じがして、序盤〜中盤にあった凄まじい熱量とリアリティは急速に失われていきます。

「終盤あんま面白くなかったな」と思いながら読み終えた時、あることに気がつきました。それは、僕自身も、主人公の憤り、被災地のリアルな描写を面白さとしか捉えていなかったということです。それに気づいた時、この小説を本当に恐ろしいと感じました。気づいたら背後に回り込まれていたような感覚になりました。

主人公の激しい怒りに共感したふりをして、読者である自分だけは清いつもりでいた僕自身も、作中に描かれるテレビマン達と同じだったのです。

終盤の陳腐さが意図されたものかは知る由もありませんが、それによってこの小説は、読者の逃げ場すらない、徹底した批評性のあるものとなったのです。

 

 

https://m.huffingtonpost.jp/2018/07/07/kiyoshi-kanebishi_a_23476700/

 

表現を盗用されたとされる、『3.11 慟哭の記録』(新曜社)の編者・金菱清による、『美しい顔』へのコメントです。

一読して、そうじゃねえよ、と思いました。「被災者の言葉に対する敬意を欠いている」とか言ってますけど、そこじゃないんですよ絶対。大事なのはそこじゃないんですよ。

あなたも被災者の言葉を収奪してコンテンツにしてはいませんか?敬意なんて本当は存在しない・意味がないんじゃないですか?という事なんです。敬意がどうとかいう善悪の次元でやってないんだよ。「単に小説のネタとして、彼らの言葉を使っただけではないでしょうか」とか言ってますけど、そうだよ。報道も小説もそれに過ぎないんじゃないか?って事なんだよ。自分だけはきれいなふりするなよ。きっとあなただって例外じゃないんだよ。

 

しかし、引用元・参考文献が明記されていなかったことでこの小説は槍玉に挙げられたわけですが、すべて明記していたらどうなっていたんでしょうか。現実を伝える、記憶を風化させないという使命感に満ちたノンフィクション作家達の実名を書き連ねてしまったら、もう言い訳できない、具体的な対象のある完全な批判になってしまわないでしょうか。そっちの方が事件だよ。

 

http://www.kodansha.co.jp/upload/pr.kodansha.co.jp/files/pdf/2018/180706_Gunzo.pdf

野田秀樹『エッグ』

歌人としての寺山修司を評して、穂村弘

 

"寺山はイメージのコラージュによって幻の〈私〉を創り出した。その根底にあるものは、現に感受された個人的違和の、他者に共感可能な最大公約数的イメージへの強引な転換にほかならない。(中略)大滝や水原が表現の入力と出力をデジタル変換によって直結しているとすれば、寺山はそこに読者という他者の想定を持ち込んだとも言える。"

( 穂村弘『短歌という爆弾』)

(大滝…大滝和子   水原…水原紫苑)

 

と述べています。なるほど寺山修司の作品というのは、作品の虚構性を自覚した上で成り立っているように見えます。

結局寺山修司は短歌の世界から身を引いたのですが、虚構を生み出す自己を責める姿勢を持っていては、短歌を続けることは確かに難しいだろうなと思います。

短歌を目にするとき、読者は無意識に歌中の主語を作者に置いています。

寺山修司は「書く人間に対する疑いをはらまない」ものを信用できないと言います。それを思えば、自分の目を通し、自分の心に深入りし、それをできるだけ生の形で言葉にしようという短歌の営みがそぐわなかったのは当然だと言えます。

 

寺山修司は映画『田園に死す』で、自身の同名歌集を元にしながら、その虚構性をきびしく批判しています。歌中の主語である少年時代の自分自身に向って、「あんなものではなかった」「腹が立った」と、わざわざナレーションを使ってまでその存在を否定しようとします。過去を振り返って語ろうという時につきまとう自己肯定性、表現の都合によって事実を美化することを。

いや、批判・否定という言い方は正しくありませんね。寺山修司は連続体としての書き手の実存性を疑い、韜晦させながら、逆説的にそれを求め続けたと言うべきかも知れません。

  格好つけて「韜晦」なんて言いましたが、こんな言葉普段は絶対に使いません。

 

 

さて、野田秀樹の戯曲『エッグ』は、改装中の劇場を女学生の一団が見学するシーンから始まります。そこで見つかった寺山修司の未完成原稿『エッグ』の中で描かれたエッグという架空のスポーツを主軸に置いて物語は展開します。

つまり、現代の場面に始まって、寺山修司が書いた戯曲の世界の中に入る、という入れ子構造になっています。それも単なる劇中劇ではなく、寺山修司の戯曲を現代の視点で読みながら物語は進みます(読んでいる過程と同時進行で登場人物が動くため、当然そこには読み違いが生じる)。さらに、エッグというスポーツ自体が、戦時中に起ったある出来事を美化して語られた架空のもので(追記…このあたりの記述は間違いかもしれません。野田秀樹の戯曲は読むのが難しい)、それもまた入れ子構造を複雑怪奇なものにする一因となります。

つまり、

過去にあった出来事

を、もとにして作られたスポーツ「エッグ」

を、扱った戯曲 寺山修司作『エッグ』

を、読み違えながら作られる劇 (劇中劇)

ということです。さらに寺山修司の戯曲自体が何者かに改変されてたりして、もう何が本当かわからなくなります。しかしその「何が本当かわからなく」なることこそが野田秀樹の狙いなのでしょう。

歴史は常に現代の視点から見る事しかできません。ならば、歴史とはアカシックレコードのようなものではなく、現代と共に姿を変え続けるオーロラのことを言うでしょう。その危うさを見せつける『エッグ』の劇中劇である『エッグ』の作者として寺山修司を置いたところに野田秀樹の技を感じます。

 

 寺山修司は、映画『田園に死す』で示した、現在の都合によって改変される過去や自己肯定性に根ざした抒情性を疑う姿勢をもって戯曲『エッグ』を書いたであろうことは想像に難くありません(一応言っておきますと、寺山修司作『エッグ』は実在しません。全て野田秀樹の創作です。ただ、その作者が寺山修司だという設定があるということは、受け手である我々も、寺山修司が『エッグ』を書いたのだと信じ込んで、その創作の姿勢に思いを馳せるべきだと思うのです)。

野田秀樹は、作中に登場する「現代の芸術監督」が、戦時中に731部隊が行なった人体実験を「スポーツ」と読み違える(追記…「読み違え」たわけではなかったかもしれません)、という凄まじい大仕掛けによって現在から見た過去の不安定さを表現しました。その読み違いに抵抗するように、寺山修司の戯曲は後半になるにつれ具体性を増して行きます。

(追記…731部隊が世に知られるきっかけとなった小説『悪魔の飽食』は、ところどころ創作が混ざっており、ノンフィクション小説と呼ぶに足る信憑性はない、とする説が有力なようです。劇中ではさも隠された真実のように描かれる731部隊の人体実験ですが、本当のところそれがどのようなものであったかは誰にもわかりません。野田秀樹が観客に仕掛けた罠は恐ろしいまでに巧妙です。)

 

 

では、野田秀樹『エッグ』は、寺山修司が自らの(実在する)作品で示したテーマの焼き直しなのかと言うと、当然そんなことはありません。

寺山修司が過去に対する認識の危うさをあくまで個人のレベル、自分自身への問いかけとして『田園に死す』で描いたとすれば、野田秀樹『エッグ』はそれを普遍化しようとする試みであったのではないでしょうか。

野田秀樹は、平田オリザが打ち出した現代口語演劇は「口語」ではなくある年代の「現代語」であり、局部対応でしかないと言います(『野田秀樹 新しい地図を携えて』KAWADE夢ムック 文藝別冊 )。

それが増加してゆく一方である近年の演劇界の流れに抵抗するように、ギリシャの時代から続く「詩の言葉のある演劇」を今も作り続けています。野田秀樹が作ろうとしているものは、新時代の古典となり得る戯曲なのです。

寺山修司が示したテーマを731部隊に託して描くことで、心の問題を社会の問題へと、抽象を具体へと変化させ、さらに、現代による書き換え・読み違いや、時代を軽々と飛び越える演出によって、社会の問題を再び心の問題へ、具体を再び抽象へと回帰させる壮大な二度手間によって、個人の問題は普遍化されました。

野田秀樹の戯曲は、一人二役であったり、過去と未来を同時に描いたりする仕掛けによって、読者(または観客)が登場人物に感情移入することを拒みます。

それは、テーマをただ個人のものとして収めるのではなく、古典となり得る普遍性を持ったものを作ろうという野田秀樹の創作への姿勢の現れなのです。

(追記…野田秀樹自身は、「古典」を現代にも生きる言葉が綴られたものとして使っていないようです。彼の言い回しを借りるなら、野田秀樹が作ろうとしているものは「残るコトバ」というものです)

 

 

気づけばずいぶん長く『エッグ』と野田秀樹について書きました。ファンなんです。野田秀樹は批判してますが、僕は平田オリザも好きです。

 

しかし、本来は体験であるはずの演劇というものを、再演でもしてくれない限り観ることができないからといって戯曲を買い集めてせこせこ読んでわかったふりをする行為は、涙が出るほど無意味ですね。その空間を共有することに意味があるだろうに。

(追記…そもそも感想書くこと自体意味ねえだろ、という人が読んでいるかもしれないので補足すると、「無意味」というのはあくまで自分にとってです。思ったことを文章にすることで頭の中をまとめようとするとき、そもそも元となる体験自体が成立していない場合、「思ったこと」も成立しなくなり、そうすると頭の中をまとめる行為も成立しないのではないかという疑いがある、ということです。)

 

"我々は現象界に属しながら叡智界に棲む"

( カント )

 

文学は本来の性質として、現象界にあるものを叡智界に持ち去ろうという術であるために、書き手の体験を現象界に棲まう読み手が共有することはできません。

それに比べて演劇のなんと親切な事でしょう。叡智界と現象界の扉は開いており、表現者と我々が同じ空間・体験を共有することができるのですから。

どうも、本当にくだらないことをしているな。

 

"作品を見て、林眞須美という作者があまりにはっきりと見えすぎる時、それを描く体験は林眞須美のものであり、見ている者の体験ではない。(中略)我々は、作者を亡き者にしなければ、それを自分の体験にすることはできないのだ。"

( 乗代雄介『未熟な同感者』)


"ここで書かれる「あなた」は、戦争体験を分かち合う戦友のような「完全な同感者」としての読者である。そんな読者は、今まさに書かれている文章を、読むことで書いているのだから、本の余白に解釈じみた書き込みを入れるはずがない。その結果、彼らは別の部分でバディが書くように「腹立たしいほど無口」になるだろう。"
( 同上 )

 

作品を読み込もうとする時、読者の興味は自然と作者へと向かって行きます。これは仕方のないことですし、そうすることで批評は意味を成してきたのですが、実は読者は、そうすることで「体験」から引き離されているのです。

 

 

 

https://m.youtube.com/watch?v=PHV3lXbR2lw