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乗代雄介『生き方の問題』(群像 2018年6月号) 1

文芸時評】8月号  早稲田大学教授・石原千秋  正しいことを言うときは  相手を傷つけやすいものだと

https://www.google.co.jp/amp/s/www.sankei.com/life/amp/180729/lif1807290016-a.html

 

「文学は体制を批判するもの」なんて言い切ったら、文学は一気につまらないものになってしまいませんか?「文学研究のポリティカルコネクトレスは嫌いだ」と言うなら、そんな社会に依存した考えを持たないでよ。体制への批判なんてものは所詮体制に依存した考えで、『美しい顔』が強い批判力を持っていたとしてもそれは副産物でしかないのです。岩城京子が現代演劇を「周縁メディアだからこそ客観的に中心を眺めることができる」と言ったように、文学もまた周縁から中心を射抜く一矢となり得ることは疑いませんが、あくまで「なり得る」だけであって、「文学は体制を批判するもの」だなんて言い切られると、それは違うよって気分になってしまいます。

現代っ子である僕の目から見ると、体制を批判するものとしての文学の役割はすでに終わっています。

 

"神里雄大と村川拓也(一九八二年生まれ)が大学に入学した時点では、ウェブに常時接続できた日本人は、まだ三割強である。なおネット常時接続の有無が、影響を及ぼしているかどうかは定かでないが、神里・村川のふたりと本書で採り上げる他の作家たちとのあいだには、明らかに想像力の断層線が横たわる。

その差異を平易に述べるなら、前者二人がおのれの身体を「距離計」のように利用して、自分と事象とのあいだの距離を、客観的に計測しつつ作品にアプローチするのに対し、ほかの多くの作家たちは、身体をいわば「地震計」のように用いて、自分はあくまでもおなじ場所に居座り、その場で時代の振動を受信して、事象自体を自分の肉体に内在化してしまっている。"

( 岩城京子 編『日本演劇現在形 時代を映す作家が語る、演劇的想像力のいま』序論より )

 

「文学の役割」と言いながら演劇の話を持ち出すのは筋違いもいいとこですが、この話は文学にもあてはまる事のように思えます。インターネットの普及によって、人々の頭脳空間は無際限に拡大し、「ここ」という空間的連続性は失われました。東京は急速に変貌をし続ける不定形な情報の集合体です(地方でも、インターネット常時接続によって人々は二重の時間を同時に過ごしています。ネット空間における東京と地方の差は、その二つの時間の結びつきが強いか弱いかの差です)。大量で雑多な情報(その中には当然、様々なイデオロギーが含まれている)が常に身体を通過してゆく日々は、自分と他者との明確な境界線をあやふやなものにさせます。それが、「事象自体を自分の肉体に内在化」させることでもあります。

「体制」も「他者」の一つであるとするならば、主観的視座において、体制は批判するべきものでも、善悪・正誤の判断をするべきものでもなく、ただ「(自分の内部に?)ある」ものでしかないのです。

あと僕の好みの話なのですが、何かしらの主義主張をしてくる文学作品って死ぬほど退屈じゃないですか?芸術を道具として使っている感じがして。だからプロレタリア文学とか読む気がしないんですよね。

 

しかし冒頭の記事を書いた石原千秋という人は、文学ひいては芸術を社会的メッセージとしか取ることができない人のようです。だから藤田貴大の『BOAT』を非寛容に対する批判だと見てしまう。

BOAT』の主軸を非寛容だとすると、その描き方が単純すぎてつまらない。それよりも、終盤の「名前のない土地」や「舞台に立っているのも、客席でそれを見ているのも私だった」といった台詞を頼りに物語を遡った方が面白い。そうして見ると、絶望の中で人はどう生きるか?という、より普遍的な問題が立ち上がってきます。

 

"我々は往々にして「正しい」、または「まちがった」という言葉を使うが、情報処理をその使命として生きるものに「正しい」も「まちがう」もないのではないか。

みなさんも不安だろうから、ワタシはひと思いに言ってあげよう。我々は「正しいこと」なんかできはしないのだ。できるのは「すべきである」決断と行動という情報処理だけである。そして、その結果が正しくなかったとしても、我々はリアルタイムであることをやめてはならないだろう。それに続く「すべきである」決断と行動という情報処理を、継続するしかない。いかなる問題が起ころうとも、「しない」ことによって解決しようとしてはいけない。常に「する」ことで解決するしかないのだ。やめるな!一生やれ!なんでもやれ!ほっといてくれ!"

( いがらしみきお『IMONを創る』)

 

いがらしみきおの言葉(一応言っておきますが、やらなかった後悔よりやった後悔なんていう話じゃないですよ。一応)を思い出した時、「舞台に立っているのも、客席でそれを見ているのも私だった」という台詞が腑に落ちました。

人間の持つ機能の根幹を情報処理だとすると、あらゆる他者や環境は情報として自我に内在化されます。その時他者は自分自身であると言えます。ならば絶望する必要はどこにもありません。自分も、自分ではない誰かも、非寛容でさえも、すべて自分であって自分でないからです。

 

"象が大きいのは、何か他の物ーー犬とか女の人とか、そういったものと並べたときだけ言えることでね

(中略)

つまり、もしも草は緑だと教えると、子供たちは初めから草をある特定の見方ーー教えたそのご当人の見方ーーで見るようになっちまうーーほかにも同じようによい見方、いやもっとはるかによい見方があるかもしれないのにさ……よく分かんないけどね。ぼくはただ、両親やみんなが子供たちにかじらしたりんごを、小さなかけらの果てまでそっくり吐き出さしてやりたいんだよ

(中略)

ある物がある態度をとる代わりにある形で存在するからといって、それが無知蒙昧の理由にはならないさ"

( J.D.サリンジャー『テディ』)

 

そんな感じで、森羅万象をただ単に森羅万象でしかないとした時、あらゆるものを記号化してしまう自分の脳に疑いを持った時、「文学は体制を批判するもの」なんて口が裂けても言えなくなるのです。文学の本領は社会批判でも啓蒙でもないのです。当たり前だろ!では本領とは?

 

そんな風なことを考えていたら、乗代雄介の『生き方の問題』を読み返したくなったので、読み返してみることにしました。

今までのは全て前置きです。続きます。

北条裕子『美しい顔』(群像 2018年6月号)

今年の6月に「お、乗代雄介の新作が載ってるじゃん」と思って買った群像に、群像新人文学賞受賞作としてものすごい小説が掲載されていて度肝を抜かれてしまいました。

北条裕子の『美しい顔』は、群像新人文学賞の受賞後、芥川賞にもノミネートされ、受賞の期待が高まる最中、表現の無断借用が発覚し、大きな話題となりました。

 

https://www.sankei.com/smp/life/news/180629/lif1806290021-s1.html

(事件の概要をまとめた記事)

 

問題が明らかになる前に読み、興奮していた身としては、ひえ〜〜という感じでした。正直ちょっとがっかりもしました。剽窃自体よりも、そんなことでこの小説の価値が損なわれてしまうことにです。今後『美しい顔』を読む人には、このスキャンダラスな事件のイメージを抜きにした読書体験が訪れることはありません(新潮社が講談社をバキバキに批判している文章とかあるし、ゴシップとして楽しむ気持ちもわからなくはないですが、自分が良いと思ったものが馬鹿どもの言葉で汚される様を見るのは気分のいいものではありませんね。著者である北条裕子が若く美しい女性であることも騒がれる要因の一つのようです。本当に最悪)。そのことが本当に悔しくなるほど、この小説はすごい。

稀に、「作者はこれを書かずにはいられなかったんだろうな」と思わせる熱量を持った小説があります(樋口一葉の『たけくらべ』や『にごりえ』、太宰治の『人間失格』などはその代表的な例でしょう)。『美しい顔』は、新人らしい荒さがありながら、それすらも魅力に変えてしまうほどの情熱的な文章でラストまで読者をぐいぐい引っ張っていくような力がありました(同号に掲載されている、乗代雄介の四作目の中編『生き方の問題』が、デビュー作『十七八より』にあった熱を失ったかわりに円熟味を増したことと対照的でした)。

 

 

"小説を書くことは罪深いことだと思っています。この小説はそのことを特に意識した作品になりました。それは、被災者ではない私が震災を題材にし、それも一人称で書いたからです。

実際、私は被災地に行ったことは一度もありません。とても臆病で、なにもかもが怖く、当時はとても遠くの東京の下宿から、布をかぶってテレビを見ていたのです。現実が恐ろしくてしかたがなかったのです。

(中略)

そのくせです。

実際に時が過ぎ、テレビでも震災のことはあまりやらなくなり、状況が静まりかえってから(あくまでも静まりかえったようにみえてから)その間にさんざん溜め込んでしまったなにか得体の知れない不快なものを、私は私の中に自覚しました。それはおそらく憤りでした。"

(北条裕子 受賞のことば 群像2018年6月号掲載)

 

受賞のことばにある通り、この小説は被災者の一人称で書かれています。その視点から、震災を取材に来る人たちやボランティアに対しての憤り、屈折した感情が生々しく描かれています。

 

"なぜ私はお前なんかに見せてやらなければならない。なぜお前なんかにサービスしてやらなきゃならない。なぜ私がお前なんかを気持ちよくさせてやらなければならない。プロカメラマンになったような気持ちよさを、なぜお前なんかにくれてやらなければならない。かわいそうを撮るなら金を払え。かわいそうが欲しいなら金を払え。被災地は撮ってもタダか。被災者は撮ってもタダか。(中略)かわいそうにかわいそうにって涙流して気持ちよくなりたいなら家でやれ"

(『美しい顔』本文より )

 

冒頭からこんな調子なもんだから興奮しますね。

主人公は顔のきれいな(そしてそのことを自覚している)被災地の少女です。津波によって母親の消息が不明になり、希望を捨てずに母親を探す美少女としてテレビに取り上げられます。皮肉にも著者自身もその騒がれ方をしてしまったわけですが。ああ、こういう時に美少女だとかが外せない要因なんですよね世の中っていうのは。美人すぎる〇〇とか、ふざけんなよ。

当事者ではない私達は、いくら被災者のことを思って心をいためても、結局それは自分が気持ちよくなってるだけなのかも知れません。映画を見て涙を流すことと同じで。当事者ではないという絶対的な壁がある限り、私達の心の中では震災もタイタニックも似たようなものなのかも知れません。小説だって同じことです。

つまり、『美しい顔』は、当事者ではない人間が事実をコンテンツとして消費することを糾弾しながら、この小説自体もその誹りを免れないというねじれた構造になっています。この矛盾こそが凄味を生んでいると言っても差し支えないでしょう。テレビを、報道を、自分自身すらも巻き込んで、人間全体を告発しようというのです。

 

ところでこの小説は、正直言って終盤あんまり面白くありません。主人公が葛藤を乗り越え、現実の生活を始めようとしたあたりからあんまり面白くありません。物語がご都合主義になってくる感じがして、序盤〜中盤にあった凄まじい熱量とリアリティは急速に失われていきます。

「終盤あんま面白くなかったな」と思いながら読み終えた時、あることに気がつきました。それは、僕自身も、主人公の憤り、被災地のリアルな描写を面白さとしか捉えていなかったということです。それに気づいた時、この小説を本当に恐ろしいと感じました。気づいたら背後に回り込まれていたような感覚になりました。

主人公の激しい怒りに共感したふりをして、読者である自分だけは清いつもりでいた僕自身も、作中に描かれるテレビマン達と同じだったのです。

終盤の陳腐さが意図されたものかは知る由もありませんが、それによってこの小説は、読者の逃げ場すらない、徹底した批評性のあるものとなったのです。

 

 

https://m.huffingtonpost.jp/2018/07/07/kiyoshi-kanebishi_a_23476700/

 

表現を盗用されたとされる、『3.11 慟哭の記録』(新曜社)の編者・金菱清による、『美しい顔』へのコメントです。

一読して、そうじゃねえよ、と思いました。「被災者の言葉に対する敬意を欠いている」とか言ってますけど、そこじゃないんですよ絶対。大事なのはそこじゃないんですよ。

あなたも被災者の言葉を収奪してコンテンツにしてはいませんか?敬意なんて本当は存在しない・意味がないんじゃないですか?という事なんです。敬意がどうとかいう善悪の次元でやってないんだよ。「単に小説のネタとして、彼らの言葉を使っただけではないでしょうか」とか言ってますけど、そうだよ。報道も小説もそれに過ぎないんじゃないか?って事なんだよ。自分だけはきれいなふりするなよ。きっとあなただって例外じゃないんだよ。

 

しかし、引用元・参考文献が明記されていなかったことでこの小説は槍玉に挙げられたわけですが、すべて明記していたらどうなっていたんでしょうか。現実を伝える、記憶を風化させないという使命感に満ちたノンフィクション作家達の実名を書き連ねてしまったら、もう言い訳できない、具体的な対象のある完全な批判になってしまわないでしょうか。そっちの方が事件だよ。

 

http://www.kodansha.co.jp/upload/pr.kodansha.co.jp/files/pdf/2018/180706_Gunzo.pdf

野田秀樹『エッグ』

歌人としての寺山修司を評して、穂村弘

 

"寺山はイメージのコラージュによって幻の〈私〉を創り出した。その根底にあるものは、現に感受された個人的違和の、他者に共感可能な最大公約数的イメージへの強引な転換にほかならない。(中略)大滝や水原が表現の入力と出力をデジタル変換によって直結しているとすれば、寺山はそこに読者という他者の想定を持ち込んだとも言える。"

( 穂村弘『短歌という爆弾』)

(大滝…大滝和子   水原…水原紫苑)

 

と述べています。なるほど寺山修司の作品というのは、作品の虚構性を自覚した上で成り立っているように見えます。

結局寺山修司は短歌の世界から身を引いたのですが、虚構を生み出す自己を責める姿勢を持っていては、短歌を続けることは確かに難しいだろうなと思います。

短歌を目にするとき、読者は無意識に歌中の主語を作者に置いています。

寺山修司は「書く人間に対する疑いをはらまない」ものを信用できないと言います。それを思えば、自分の目を通し、自分の心に深入りし、それをできるだけ生の形で言葉にしようという短歌の営みがそぐわなかったのは当然だと言えます。

 

寺山修司は映画『田園に死す』で、自身の同名歌集を元にしながら、その虚構性をきびしく批判しています。歌中の主語である少年時代の自分自身に向って、「あんなものではなかった」「腹が立った」と、わざわざナレーションを使ってまでその存在を否定しようとします。過去を振り返って語ろうという時につきまとう自己肯定性、表現の都合によって事実を美化することを。

いや、批判・否定という言い方は正しくありませんね。寺山修司は連続体としての書き手の実存性を疑い、韜晦させながら、逆説的にそれを求め続けたと言うべきかも知れません。

  格好つけて「韜晦」なんて言いましたが、こんな言葉普段は絶対に使いません。

 

 

さて、野田秀樹の戯曲『エッグ』は、改装中の劇場を女学生の一団が見学するシーンから始まります。そこで見つかった寺山修司の未完成原稿『エッグ』の中で描かれたエッグという架空のスポーツを主軸に置いて物語は展開します。

つまり、現代の場面に始まって、寺山修司が書いた戯曲の世界の中に入る、という入れ子構造になっています。それも単なる劇中劇ではなく、寺山修司の戯曲を現代の視点で読みながら物語は進みます(読んでいる過程と同時進行で登場人物が動くため、当然そこには読み違いが生じる)。さらに、エッグというスポーツ自体が、戦時中に起ったある出来事を美化して語られた架空のもので(追記…このあたりの記述は間違いかもしれません。野田秀樹の戯曲は読むのが難しい)、それもまた入れ子構造を複雑怪奇なものにする一因となります。

つまり、

過去にあった出来事

を、もとして作られたスポーツ「エッグ」

を、扱った戯曲 寺山修司作『エッグ』

を、読み違えながら作られる劇 (劇中劇)

ということです。さらに寺山修司の戯曲自体が何者かに改変されてたりして、もう何が本当かわからなくなります。しかしその「何が本当かわからなく」なることこそが野田秀樹の狙いなのでしょう。

歴史は常に現代の視点から見る事しかできません。ならば、歴史とはアカシックレコードのようなものではなく、現代と共に姿を変え続けるオーロラのことを言うでしょう。その危うさを見せつける『エッグ』の劇中劇である『エッグ』の作者として寺山修司を置いたところに野田秀樹の技を感じます。

 

 寺山修司は、映画『田園に死す』で示した、現在の都合によって改変される過去や自己肯定性に根ざした抒情性を疑う姿勢をもって戯曲『エッグ』を書いたであろうことは想像に難くありません(一応言っておきますと、寺山修司作『エッグ』は実在しません。全て野田秀樹の創作です。ただ、その作者が寺山修司だという設定があるということは、受け手である我々も、寺山修司が『エッグ』を書いたのだと信じ込んで、その創作の姿勢に思いを馳せるべきだと思うのです)。

野田秀樹は、作中に登場する「現代の芸術監督」が、戦時中に731部隊が行なった人体実験を「スポーツ」と読み違える(追記…「読み違え」たわけではなかったかもしれません)、という凄まじい大仕掛けによって現在から見た過去の不安定さを表現しました。その読み違いに抵抗するように、寺山修司の戯曲は後半になるにつれ具体性を増して行きます。

(追記731部隊が世に知られるきっかけとなった小説『悪魔の飽食』は、ところどころ創作が混ざっており、ノンフィクション小説と呼ぶに足る信憑性はない、とする説が有力なようです。劇中ではさも隠された真実のように描かれる731部隊の人体実験ですが、本当のところそれがどのようなものであったかは誰にもわかりません。野田秀樹が観客に仕掛けた罠は恐ろしいまでに巧妙です。)

 

 

では、野田秀樹『エッグ』は、寺山修司が自らの(実在する)作品で示したテーマの焼き直しなのかと言うと、当然そんなことはありません。

寺山修司が過去に対する認識の危うさをあくまで個人のレベル、自分自身への問いかけとして『田園に死す』で描いたとすれば、野田秀樹『エッグ』はそれを普遍化しようとする試みであったのではないでしょうか。

野田秀樹は、平田オリザが打ち出した現代口語演劇は「口語」ではなくある年代の「現代語」であり、局部対応でしかないと言います(『野田秀樹 新しい地図を携えて』KAWADE夢ムック 文藝別冊 )。

それが増加してゆく一方である近年の演劇界の流れに抵抗するように、ギリシャの時代から続く「詩の言葉のある演劇」を今も作り続けています。野田秀樹が作ろうとしているものは、新時代の古典となり得る戯曲なのです。

寺山修司が示したテーマを731部隊に託して描くことで、心の問題を社会の問題へと、抽象を具体へと変化させ、さらに、現代による書き換え・読み違いや、時代を軽々と飛び越える演出によって、社会の問題を再び心の問題へ、具体を再び抽象へと回帰させる壮大な二度手間によって、個人の問題は普遍化されました。

野田秀樹の戯曲は、一人二役であったり、過去と未来を同時に描いたりする仕掛けによって、読者(または観客)が登場人物に感情移入することを拒みます。

それは、テーマをただ個人のものとして収めるのではなく、古典となり得る普遍性を持ったものを作ろうという野田秀樹の創作への姿勢の現れなのです。

 

 

気づけばずいぶん長く『エッグ』と野田秀樹について書きました。ファンなんです。野田秀樹は批判してますが、僕は平田オリザも好きです。

 

しかし、本来は体験であるはずの演劇というものを、再演でもしてくれない限り観ることができないからといって戯曲を買い集めてせこせこ読んでわかったふりをする行為は、涙が出るほど無意味ですね。その空間を共有することに意味があるだろうに。

(追記…そもそも感想書くこと自体意味ねえだろ、という人が読んでいるかもしれないので補足すると、「無意味」というのはあくまで自分にとってです。思ったことを文章にすることで頭の中をまとめようとするとき、そもそも元となる体験自体が成立していない場合、「思ったこと」も成立しなくなり、そうすると頭の中をまとめる行為も成立しないのではないかという疑いがある、ということです。)

 

"我々は現象界に属しながら叡智界に棲む"

( カント )

 

文学は本来の性質として、現象界にあるものを叡智界に持ち去ろうという術であるために、書き手の体験を現象界に棲まう読み手が共有することはできません。

それに比べて演劇のなんと親切な事でしょう。叡智界と現象界の扉は開いており、表現者と我々が同じ空間・体験を共有することができるのですから。

どうも、本当にくだらないことをしているな。

 

"作品を見て、林眞須美という作者があまりにはっきりと見えすぎる時、それを描く体験は林眞須美のものであり、見ている者の体験ではない。(中略)我々は、作者を亡き者にしなければ、それを自分の体験にすることはできないのだ。"

( 乗代雄介『未熟な同感者』)


"ここで書かれる「あなた」は、戦争体験を分かち合う戦友のような「完全な同感者」としての読者である。そんな読者は、今まさに書かれている文章を、読むことで書いているのだから、本の余白に解釈じみた書き込みを入れるはずがない。その結果、彼らは別の部分でバディが書くように「腹立たしいほど無口」になるだろう。"
( 同上 )

 

作品を読み込もうとする時、読者の興味は自然と作者へと向かって行きます。これは仕方のないことですし、そうすることで批評は意味を成してきたのですが、実は読者は、そうすることで「体験」から引き離されているのです。

 

 

 

https://m.youtube.com/watch?v=PHV3lXbR2lw

 

 

野田秀樹『オイル』

劇作家・演出家・俳優である野田秀樹による戯曲『オイル』は、戦後間も無くの島根県にやって来たGHQ島根県民の間に起こる軋轢と、大和神話が出雲神話に対して国の明け渡しを迫った「国譲り」のエピソードをドラマチックに掛け合わせて展開したものです。

ダブルミーニングをこれでもかと使った台詞回し、大胆なストーリー展開と、野田演劇の魅力が詰まった作品になっています。

 

野田秀樹の作品の中には、どうにもならないことに対する( 不毛にも思える、だからこそ切実な )反逆を描いた戯曲がそこそこの割合であります。

 

 

"「辛抱です。貧しい心を車に当てます」

「そや」

「違います」

「何?」

「当たり屋が当てるものは、決意です。(中略)アジアアジアした辛抱を、決意決意した観念に昇華します」"

( 野田秀樹『小指の思い出』)

 

"「ところがとある春の一日、ガラスの一族は反動説をとなえはじめた」

「反動説?」

「天動説でも地動説でもない」

「神様てめえのやることなすことがとにかく気に入らねえんだよ、という説だ」"

( 同『彗星の使者』)

 

 

『小指の思い出』では、辛抱や貧困を決意に昇華して体ごと車にぶつける当たり屋の姿を、旧約聖書に登場する魔女アタリヤの末裔が魔女狩りから逃げる姿と掛け合わせて描いています。

『彗星の使者』では、反動説を唱えたガラスの一族が、300万年の時を超えて神々に反逆すべく壮大な計画を立て、神の怒りに触れてガラス玉の中に閉じ込められます。

 

決意を車にぶつけること、神に向かっててめえのやることなすことがとにかく気に入らねえと楯突くことは、ほとんど八つ当たりと言ってもいいほど生産性がありません。しかし彼らは

 

"もうそうするより仕方ない"

(『小指の思い出』)

 

と、己の衝動に突き動かされるままに、その先が破滅であったとしても構わずに進んでいきます。

 

 

さて、『オイル』では、この「どうしようもない現実に楯突こうと突き進む」姿がひときわ生々しく狂気的に描かれます。

 

島根県に暮らす電話交換手である富士(松たか子)は、電話で死者の声を聞くことができる力を持っていました。そんな彼女には、戦争が終わってアメリカ人化していく人や、自らの故郷を進んでアメリカに売ろうとする人が理解できません。

富士の弟は若手の考古学者で、古代の島根(出雲)にはイスラム教の預言者マホメッド(劇中ではマホメと呼ばれる)がいたという説を提唱していましたが、広島に落ちた原爆によって命を落とします。

 一方古代では、出雲に大和神話の神々が降り立ち、国譲りを迫ります。出雲の人々には決定的な何かが欠けており、そのために一向に話が進まないことに業を煮やした大和の神々は大量殺人を繰り返しますが、それでも国譲りの進行は停滞します。

 

この、大和の神々を島根に進駐してきたGHQに、出雲の人々を島根県民に掛け合わせ、二つの物語は緻密に交錯してゆきます。

富士は、島根をアメリカに売り飛ばしアメリカ人になろうとする元特攻兵ヤマトに対し、

 

"復讐したいな。復讐したいなアメリカに。そうは思わない?さあじゃないの。あなたのことなのよ。あなたのことなのよ。あなたのことなのよ。 "

 

と詰め寄ります。

 

死者の声を聞くことができる、というのは、過去を風化させるという、ほとんどの人に備わっている能力を奪われているということでもありました。

原爆を他人事として片付けて恨みを時に解決させることを、富士は拒否します。ヤマトは自分が原爆の被害を受けたわけではないのだから、「あなたのことなのよ」と言われても戸惑ったでしょうが、富士にとっては他人事ではないのだから、アメリカへの復讐心が枯れないことも致し方ないでしょう。

しかし、アメリカにもそれなりに退っ引きならない事情があるわけで、だからこそ戦争が起こるわけですが、その辺りを富士は全く考慮しません。死者の声を聞く、という能力は、島根付近の死者の声に限定されるものであったようです。

富士は、島根付近の死者の声しか聞こえない( 狭い視野しか持つことを許されていない )ために、アメリカへの復讐心を鮮やかに持ち続けることができます。それを愚かなことだと言う権利を、誰が持っているというのでしょう。

自分の力ではどうしようもない出来事に直面した時、世界を再定義することで自分の心を落ち着けようとすること、一般的にそれは賢明な行動です。しかし富士にはそれが出来ない。

 

"もう聞き飽きた。「現実を受け入れろ」って…それは、誰のための現実?何のための現実?"

( 平田オリザ『海、静かな海』)

 

 

なぜ現実を受け入れなければいけないのか?なぜ復讐心を持ち続けてはいけないのか?富士の目を通して、そういった疑問が個人的な単位では解決されずに存在し続けていることをまざまざと見せつけられます。

 

"己のしたいことがなんだったのか、それがわかるかもしれないという希望の今際の際を目指して、必死に足を動かし、迷路を彷徨ったのではないか。そうなることはわかっていて。わかりながら足を運ぶ。断じて狂ってなどいない。冷静だ"

( のりしろ『熟慮の余裕(『アイヒマン調書 イスラエル警察尋問録音記録』)』)

http://norishiro7.hatenablog.com/entry/2014/02/13/223135

 

 

さて、ここまで長々と書いてきたわけですが、この演劇は、主人公に据えられたのが富士であるために、この演劇自体が、ひいては野田秀樹自身が個人的な復讐心を肯定していると誤解される危険性を孕んでいます。これは『オイル』に限らず様々な創作物に言えることですが、作中で何が描かれていようと、それが作者自身の主張だと思ってしまうのは、受け手の態度として不純であると思います。

 

"「それ、誰?」

チェーホフ

「誰が言ったのよ」

チェーホフだってば」と姪は語気を強めた。

「小説でしょ?誰が言ってたの?」

「忘れた。『ヨーヌィチ』の中だった」

「じゃあヨーヌィチが言ったのよ。ドミートリイ・ヨーヌィチが。チェーホフが言ったんじゃない。"

( 乗代雄介『十七八より』)

 

"僕にもしも自分の雑誌というものがあるとしたら、執筆者の経歴などというものを載せる欄は絶対に設けないだろうと思います。作者の出生地、子供の名前、仕事のスケジュール、アイルランド独立運動の際に兵器を密輸したかどで逮捕された年月日などというものを僕は格別知りたいとは思いません。"

( J.D.サリンジャー )

 

創作物の裏にいる作者を意識から追い出し、「作者の主張」「作者の意図」などという読書感想文めいた視点を捨てなければ、純粋にフィクションを楽しむことなど出来ません。

『十七八より』の叔母と姪の会話、サリンジャーが文芸誌編集者へ送った手紙の一節を心に差し挟んで『オイル』を観ると、そこに浮き上がってくるものは、野田秀樹の存在を意識しながら観た場合とは姿が変わっています。『オイル』はそうやって読むべき戯曲だと思います。決して、教訓を与えることや啓蒙を目的とした演劇ではないはずだ、ということです。

 

僕は主義主張のための(追記…問いかけではなく、答えを押し付けるような)創作物をくだらないと思ってしまうので、野田秀樹がそんなものを書くはずがないという期待の上でこう言っている部分があることを否定はできないのですが、創作物の内容と作者自身の考えは別物とするべきだ、という考えは間違っていないと思います。

 

"芝居の目的とは、昔も今も、いわば自然に向かって鏡を掲げること、つまり、美徳には美徳の様相を、愚には愚のイメージを、時代と風潮にはその形や姿を示すことだ。"
( シェイクスピアハムレット』)

 

ハムレットもこう言ってることだし。

今年よかったやつ

僕が今年読んだり見たり聴いたりしてよかったやつです。

 

 

・乗代雄介『本物の読書家』『未熟な同感者』(小説)

書き、読むという行為そのものの本質を追い求める気鋭の小説家、乗代雄介の二冊目の単行本です。より深く、誰も見たことのない場所に筆先で入り込んで行く様はさながら求道者のようです。『未熟な同感者』はデビュー作『十七八より』の後日談でもあります。

 

 

・マームとジプシー『モモノパノラマ・クラゲノココロ・ヒダリメノヒダ』(演劇)

劇団マームとジプシーの10周年企画として、三つの戯曲を一つにまとめて再構成したものです。再構成される前の一つ一つを見ていないのですがめちゃくちゃおもしろかったです。時が進んで行くことの残酷さと救済、世界が自分とは関係なく回っているような疎外感、生きることへの祝福と抵抗を、台詞のリフレインや二場面同時進行などの演出を用いて鮮やかに描いた素晴らしい芝居でした。

 

 

夢の遊眠社『小指の思い出』(演劇)

野田秀樹が主宰する劇団『夢の遊眠社』の名作です。旧約聖書に登場する魔女アタリヤの末裔と、辛抱や貧困を決意に昇華すべく車に自らの身体をぶつける当たり屋の姿を緻密にに掛け合わせる、ダブルミーニングをこれでもかと駆使した台詞回しは圧巻です。モグリの女当たり屋で禁断の白い実売りでもある魔女・粕羽聖子に扮する野田秀樹の艶やかな演技も必見。

https://youtu.be/PHV3lXbR2lw

 

 

野田秀樹『オイル』(演劇)

野田秀樹が自身の劇団を解散した後の企画である『NODA・MAP』の第9回公演です。野田演劇の御家芸である、二つのエピソードの同時展開、言葉遊びで芝居を作ってしまう圧倒的な脚本力、壮大で哀切なストーリーなど、野田演劇の魅力が詰まっています。主演に松たか子を迎え、藤原竜也小林聡美などが脇を固めます。やはり遊眠社の俳優に比べると声の迫力は少し劣りますが、松たか子の鬼気迫る演技だけでも一見の価値ありです。

https://youtu.be/Uc-zW84hP_4

 

 

・森義隆『聖の青春』(映画)

夭折の天才棋士村山聖羽生善治に挑む様を描いた映画です。絵面がすごく地味ですが、めちゃくちゃおもしろかったです。東出昌大の演じる羽生善治がちょっと衝撃受けるくらい美しいです。棋士として生きることの業を丁寧に描き出した、ストイックな映画です。

 

 

・カーマイン・コッポラ『ゴッドファーザーPARTI』(映画)

言わずと知れた名作。すっげーカッコいいです。たまらん。

 

 

太宰治『カチカチ山』『ヴィヨンの妻』(小説)

『カチカチ山』は「性格の喜悲劇」を昔話に仮託して身も蓋もなく描いた快作です。本当に気持ちいいくらい身も蓋もないんですが、たしかにそうだよなあと思わされます。

ヴィヨンの妻』は確か映画化もされんでしたっけ。酒癖の悪い小説家の貞淑な妻、そのしたたかさと悲哀を優しく(だからこそ残酷に)描きます。

 

 

平田オリザ『演技と演出』(新書)『転校生』(戯曲)

『演技と演出』は、世界を股にかける劇作家平田オリザが文字通り演技と演出について語った新書です。平易な言葉で目の覚めるような演出論を語る過激な一冊です。

『転校生』は、「朝起きたら、この高校の生徒になっていた」という不思議な転校生を巡ったり巡らなかったりする女子校生たちのダラダラした会話がひたすら繰り返される戯曲です。びっくりするほど何も起こりませんが、しみじみとした情緒があります。時折挟まれる文学作品のタイトルを登場人物の状況に符合させる引用の技が巧みに決まっています。平田オリザの引用術、マジックのようで小憎らしいです。

 

 

・Have a Nice Day!×大森靖子『Fantastic Drag』(楽曲)

「東京にしかないアンダーグラウンド」Have a Nice Day!と大森靖子が悪魔的なコラボレーションを果たした傑作です。大森靖子が作詞したリリックもハバナイ的な空気を纏っていて、大森靖子ハバナイは意外とベースの部分が共通しているのかも知らないと思いました。それか大森靖子の作詞能力が幅広すぎるかのどちらかです。

追記…浅見北斗が「〜からの救済」を歌ったのに対して、大森靖子は「〜への抵抗」を歌っています。その最大公約数としてラストがある感じでしょうか。

 

 

シベリア少女鉄道『たとえば君がそれを愛と呼べば、僕はまたひとつ罪を犯す。』(演劇)

過激で斬新な脚本で毎度お騒がせする劇団・シベリア少女鉄道の2017夏の公演は、約二時間の上演時間、前半一時間で練り上げたものを全部フリにして後半一時間でふざけ続けるとんでもない怪作でした。言葉・物語の意味がどんどん失われていく、混乱と爆笑の坩堝。全てが重なり合って迎えるフィナーレは全く無意味でバカバカしいのに不思議なカタルシスがありました。凄すぎる。凄すぎる〜〜。

 

 

早見和真『イノセント・デイズ』(小説)

元交際相手が家族と暮らす家に放火し、幼児を含む3人を焼死させたとして死刑判決を受けた田中幸乃。控訴を勧める弁護士の声も聞かず、彼女はただ執行の日を待ちます。なぜ彼女は死を望むのか?なぜ凶行に走ったのか?誰が彼女を救うことができるのか?田中幸乃の周囲の人物の視点から、その哀しい生を浮かび上がらせます。ミステリーとしても十分に読み応えがありますが、何より、早見和真はこれを書かずにはいられなかったのだろうと思わせられる凄まじい迫力。僕は読んでて辛すぎて、読み終わった後一日中うずくまって過ごしました。

 

 

・チラシのウラ『現代路上神話』『偽史山人伝』(web漫画)

現代にも存在しうる神話が書かれたメモを拾ったのでその内容を書き写す、という体で書かれた『現代路上神話』は、神話(虚構)と現実の境目が溶けていくような錯覚を起こします。

かつて日本にいた「山人」という生物の生態を圧倒的なリアリティで描く『偽史山人伝』は、完全な作り話でありながら、歴史のあり方や人間存在の危うさに迫った作品です。

http://tirasimanga.web.fc2.com/TUM/041/041.html

http://tirasimanga.web.fc2.com/TUM/042/042.html

 

 

・J.D.サリンジャー『テディ』

サリンジャーの短編集『ナイン・ストーリーズ』の中の一編です。度を超えて利発な少年テディと周囲の人間との会話を描いています。利発が度を超えています。あらゆる事象には意味があるのか?意味を見出すことに意味はあるのか?という命題に迫る、サリンジャー作品の中でも、彼自身の発想の核のようなものが色濃く出た短編であるように思います。

 

"象が大きいのは、何か他の物ーー犬とか女の人とか、そういったものと並べたときだけ言えることでね
(中略)
つまり、もしも草は緑だと教えると、子供たちは初めから草をある特定の見方ーー教えたそのご当人の見方ーーで見るようになっちまうーーほかにも同じようによい見方、いやもっとはるかによい見方があるかもしれないのにさ……よく分かんないけどね。ぼくはただ、両親やみんなが子供たちにかじらしたりんごを、小さなかけらの果てまでそっくり吐き出さしてやりたいんだよ
(中略)
ある物がある態度をとる代わりにある形で存在するからといって、それが無知蒙昧の理由にはならないさ"

(『テディ』より抜粋 )

 

短歌の改作をしてみる( 穂村弘『短歌という爆弾』を読んで )

 

恋人が恋人の恋人と住む丘には風は吹かないのです

( 神谷きよみ )

 

穂村弘の著書『短歌という爆弾』の中の、電子メールによるやりとりを通じて短歌のレッスンを行うという企画で、ピアニストである神谷きよみが穂村弘に送った一首です。

 

穂村弘はこの一首を、「おとぎ話のようで、でも不思議にリアル」「句またがりも巧く決まっています」と称賛しつつ、後半を「悪くないけど、少し流した感じ」と評します。

 

「流した」というのは、言葉が定型の中に収まりすぎているために、自分の気持ち、情景の細部に筆先が入り込めていないという感じでしょうか

確かに、「丘」に対して「風」ではその一首の中の世界に広がりがないというか、容易く想起できる要素で完結させてしまっている感じがしますね。

 

穂村弘は、同書の『麦わら帽子のへこみ』という章で、短歌が人を感動させるために必要な要素として「共感と驚異」を挙げています。

俵万智の歌を例に挙げて、言葉を定型に組み立てるだけの表現を諌め、あえて歌中に「驚異の感覚」( 違和感と言い換えることもできるかもしれませんね )をもたらす言葉を入れることでより共感性の高い歌を作る方法を述べています。

 

砂浜に二人で埋めた飛行機の折れた翼を忘れないでね

(  俵万智  )

 

 

ここでは、「飛行機の折れた翼」が驚異の感覚をもたらす役割を担っていると言えるでしょう。

それを踏まえて、穂村弘

 

 

恋人が恋人の恋人と住む丘には風は吹かないのです

 

 

を、どう改作したのかを見てみましょう

 

 

改作例1

恋人が恋人の恋人と住む家に投げ込むひまわりの首

 

 

改作例2

恋人が恋人の恋人と住む家の時計の鳩盗み出す

 

 

まず、「丘」を「家」に変えたことで、より具体性のある衝動のようなものが表現されていますね。

僕は、「時計の鳩盗み出す」は少し攻撃性が直接的過ぎるのかなと思いました。

「家に投げ込むひまわりの首」は、ひまわりという華やかで明るいイメージのあるものを首だけ投げ込むことで、嫉妬や憎しみををうまく表現できない感情のねじれを表した素晴らしいフレーズだと思いました。一気に情報量が増えますね。

しかし、「丘」を「家」にしたことに関しては、穂村弘自身、「これだとちょっとやりすぎかな。きよみさんの原作にあった自然な実感が消えてしまうかもしれない」と述べています。

うまく言えませんが、原作では、「恋人が恋人の恋人と住む」こと自体への直接的な感情というより、もっと広い、それが成立している世界自体へのやわらかな呪いが描かれていたように思います。その世界を「丘」に仮託して、「風は吹かない」呪いをかける。家まで行ってひまわりの首を投げ込んでしまうと、すこし憎しみのニュアンスが強すぎる気がします。もうちょい感情を曖昧に表現できるといいのかも知れませんね。

 

そういうことを考えているとなんだか面白くなってきたので、僕も改作を考えてみます。完全に素人なので僭越ではございますが、素人だからこそ恐れを知らずにこんなことができる。こっちは素人なんだぞ。何やってもいいだろ。

まずは、原作に準拠して、「風」で

 

 

恋人が恋人の恋人と住む丘には風は吹くなと祈る

 

 

「祈る」が微妙ですかね。「吹くなと祈る」よりも、「吹かない」と言い切る方が切ない願いの感じがしていいかも知れません。吹かないと信じていたい気持ちというか。

次に、穂村弘による改作例1を元に

 

 

恋人が恋人の恋人と住む丘に捨ててくひまわりの首

 

 

「投げ込む」を「捨ててく」に変えて、自分の生活があくまで中心となる中でふと沸き立つ愛憎を衝動的にぶつけた感じにしてみました。割り切れない感情が出せたらいいなと思いました。

でもちょっと「捨ててく」ではないかもな。

次は改作例2を元にやってみます。

 

 

恋人が恋人の恋人と住む家の時計の鳩を真似する

 

 

何もない日の夕方に、一人でその家の鳩時計の鳴き真似をしてたらちょっと可愛いしかなり怖くていいかなと思ったんですが、ちょっと生活感が出すぎましたかね。もっとおとぎ話感が欲しい。狭い視野で広い世界を見ているような短歌にできたらいいな。

 

 

恋人が恋人の恋人と住む丘には二度と風は吹かない

 

「二度と〜ない」がオートマティックというか、流した感じでしょうか。言葉を定型に組み立てるだけになってしまいました。「二度と風は吹かない」より、「風は吹かないのです」の方が、個人的な感情の表出という感じがして、より実感を伴ってていいですね。

 

 

恋人が恋人の恋人と住む丘には風は吹かないのです

 

 

原作が一番良いような気もしてきました。僕はこの辺でギブアップします。

『短歌という爆弾』かなりおもしろいのでお勧めです。短歌を楽しむための手引きとでも言いましょうか、短歌という世界の入口にある厳めしい扉を少し開けて、その中にあふれる光と陰を覗かせてくれるような本です。

世阿弥『風姿花伝』3

過去二回に渡って風姿花伝について感想を書いてきましたが、今回で終わりにしようと思います。最後は、風姿花伝の中に度々登場する「花」という文言に関して感想を書きます。


「花」が風姿花伝の中で初めて触れられるのは、『年来稽古条々』の『十二三より』という章です。ここでは、数えで12.3歳、今で言うところの11.2歳の能に関して述べられています。

世阿弥はこの頃の能を「童形なれば、なにとしたるも幽玄なり」「悪き事は隠れ、よき事はいよいよ花めけり」と、幼い時分の特長を述べた上でこう釘を刺します。


"さりながら、この花はまことの花にはあらず、ただ時分の花なり。されば、この時分の稽古、すべてすべてやすきなり。さるほどに、一期の能の定めにはなるまじきなり。"
(『風姿花伝第一 年来稽古条々』)


11.2歳の頃の能は、幼さ故に何をやっても華々しく見え、稽古はすべて容易いものであるが、( だからこそ )一生の能を決定付けるものではない。

風姿花伝第一 年来稽古条々 十七八より』に関して書いた初回の感想文で触れましたが、その後数年が経ち、二次性徴を迎えると幼い時分の花は失われ、苦悩の時期が訪れます。

「時分の花」とは役者の年齢の変化、流行の変化などによって失われてしまう、その時限りの花のことらしいです。


では、そもそも世阿弥のいう「花」とは何なのでしょうか。


"そもそも、花といふに、万木千草において、四季折節に咲くものなれば、その時を得てめづらしきゆゑに、もてあそぶなり。申楽も、人の心にめづらしきと知る所、すなはち面白き心なり。花と、面白きと、めづらしきと、これ三つは同じ心なり。いづれの花か散らで残るべき。散るゆゑによりて、咲く頃あればめづらしきなり。能も、住する所なきを、まづ花と知るべし。"
(『花伝第七 別紙口伝』)


"時分の花、声の花、幽玄の花、かやうの条々は、人の目にも見えたれども、そのわざより出で来る花なれば、咲く花のごとくなれば、またやがて散る時分あり。されば、久しからねば、天下に名望少なし。ただ、まことの花は、咲く道理も散る道理も、心のままなるべし。されば久しかるべし。この理を知らん事、いかがすべき。もし、別紙の口伝にあるべきか。
ただ、わづらはしくは心得まじきなり。まづ、七歳よりこのかた、年来稽古の条々、物まねの品々を、よくよく心中にあてて分かち覚えて、能を尽くし、工夫を極めて後、この花の失せぬ所をば知るべし。この物数を極むる心、すなはち花の種なるべし。されば、花を知らんと思はば、まづ種を知るべし。花は心、種はわざなるべし。
古人曰く、
( 以下、便宜上書き下して引き写す )
心地に諸々の種を含み
普き雨に悉く皆萌す
頓に花の情を悟り已れば
菩提の果自ずから成る"
(『風姿花伝第三 問答条々』)


花は時節によって咲き、散るからこそ魅力があるものである。能の魅力も、咲く時もあれば散る時も必ずある。だからこそ面白い。散ることのない花などない。しかし、「まことの花」を得たならば咲く道理も散る道理も心のままである。

一見矛盾したことを言っているように思えますが、「咲く道理も散る道理も、心のままなるべし」という言葉の真意は、一所に留まることなく、新しい「面白き」ことと「めづらしき」ことを求め続ける営みにこそ、「まことの花」が宿るという事にあります。花はいずれ散ることを受け入れた上で、新たな種を残し続けることが、「咲く道理も散る道理も、心のまま」にする唯一の方法です。

世阿弥風姿花伝の中で度々、得意分野に固執せずに様々な役柄や演目をこなせる役者になることを勧めています。なぜそんなにも物数をこなすことに拘るのか不思議に思っていましたが、それを「まことの花」についての考えに当てはめると合点がいきました。

つまり、一つの役柄が得意でそれでのみ高く評価されている人の「花」は、それが花であるゆえにやがて散る運命を免れない。ただ一つの魅力しかもたない役者の花は「時分の花」でしかない。

ものすごく乱暴に言えば一発屋にしかなれないということです。

天下に許されを得て一座を永続させることを第一とした世阿弥の考えからすれば、自分のやりたい表現など取るに足らないもです。それよりも、何でもできる役者になる方がよっぽど大事、むしろその事にしか興味がないようです。


最後は、世阿弥の残した最も有名な文言である、「秘すれば花」についてです。
「沈黙は金」と混同して使われることもあるこの文言ですが、その意味するところは全く違います。


"秘する花を知る事。秘すれば花なり。秘せずは花なるべからずとなり。この分け目を知る事、肝要の花なり。
そもそも、一切の事、諸道芸において、その家々に秘事と申すは、秘するによりて大用あるがゆゑなり。しかれば、秘事といふことをあらはせば、させる事にてもなきものなり。"
(『花伝第七 別紙口伝』)


世阿弥は、家々に伝わる秘事( および秘伝 )に関して、その内容だけでなく、それが存在する事自体を秘匿せよと言います。

観客が「何か新しい演出があるらしい」と期待した上でそれを見せても大した効果は上げられないからです。だから、新しい事、凄い事をやる前にはそれをやるという素振りすら見せてはならない。それが、「人の心に思ひも寄らぬ感を催す手立」らしいです。
追記…お笑いで言う「フリを隠せ」みたいなのもこれに属するんですかね。「この後ボケが来るぞ」と思わせてしまってからボケるより、思いもよらない(想像してもおかしくなかったけれども、想像していなかった)タイミング・角度からボケた方がウケやすいっていう。お笑いは「思ひも寄らぬ感を催す」ことに特化した表現形態なので、わざわざ言わずとも、みんな「秘すれば花」の考え方が身体に染み付いているという気がします。


さて、長々と感想を述べてきましたが、これで終わりです。

歴史上の人物が自分にも共感し得る、信じられることを言ってくれている事実、自分が信じる言葉を言ってくれた人が歴史的に重要な人物である事実には相当に救われ、背中を押される気持ちになりますが、そんなことは風姿花伝の内容や世阿弥の意志には全く関係がないのであまり言わない方が賢明かもしれません。