感想

感想を書きました

こだま『夫のちんぽが入らない』

こだまさんという主婦の方が18歳で一人暮らしを始めてから38歳になるあたりまでの20年を振り返って書いた私小説です。入らないらしいです。

インターネットを中心にかなり話題になってます。amazonの書籍部門ランキング1位になってました。

 

 

まず、めちゃくちゃに過激な人が書いた本だ、と思いました。過激というのは別にタイトルのことを言っているわけではありません。タイトルも相当なんですが、それはすでに散々話題になっていることなので、もう触れるまでもありません。

 

哲学者の内田樹は、劇作家であり演出家の平田オリザを評して「虚の過激さ」があると言いました。

 

"こういう「虚の過激さ」というのは、欧米のドラマツルギーのうちにはまず見ることのできないものである。かの地では、「自分はこう思い、こう感じる」ということを明晰判明かつはっきりした声で言わないと「存在しない」かのように扱われる。(中略)だが、本当に法外な思念や感情は、人々から「ああ、『あれ』ですね」と簡単に了解されるような既存の度量衡で考量されることを拒む。そんなふうに「たかをくくった」かたちで了解され、それに基づいて慰撫されたり、気味悪がられたり、気を遣われたりするくらいなら、いっそ「ないもの」と思われた方がまだましだ"

( 内田樹平田オリザの法外な過激さについて』文藝別冊 )

 

こだまさんの文章にも、この「虚の過激さ」を感じます。極度の引っ込み思案、物理的に成立しない夫とのセックス、担任として受け持ったクラスの学級崩壊、自己免疫疾患、夫のパニック障害、客観的に見ても主観的に見ても高すぎるハードルだらけの人生です。

しかしこだまさんはそれをありきたりな悲劇のようには書かない。おそらく、そういう書き方をしても「ああ、『あれ』ですね」としか思われないことがわかっていて、それを極度に嫌っているのでしょう。だからどんなに悩んでいて苦しい場面でも、こだまさんの文章には水の中のような静けさがあります。

 

一つの事実があって、それ自体はただの事実で、善も悪もないという考えは文学的でストイックではありますが、倫理観の欠如であるとも言えます。その事実が誰かにとって苦しいものであるならなおさらです。

こだまさんは自分にとって苦しい事実すら善悪の観念を抜いて捉え、書いている。それがどれだけ難しいことかは想像もつきません。自分が悩んでいたこと、苦しんでいたことを書いているはずなのに、ものを書く人としての姿勢でそれを書いている。これを過激と言わずどう言えばいいのでしょうか。

 

そしてこだまさんは、自分が安易にカテゴライズされることを嫌うかわりに、他人にもそれをしないという姿勢を徹底しています。

中盤で「アリハラさん」という人が出てきます。この人は山が好きなのですが、好きといっても性的な方で、山が性的に好きっていうのも意味がわからないと思いますが、登頂する度に自慰行為をするという、バカやべー変態野郎です。

こだまさんは不幸にもその現場の立会人になってしまうわけですが、この人のことすらこだまさんは善悪の観念なしに書いています。 自分とは明らかに違う価値観を前にして、それを自分の価値観で勝手にカテゴライズ(または断罪)するのでも、わかったつもりになるのでもなく、ただ「ある」ものとして捉えています。

こだまさんがそれまでの人生でたくさんの人の「わかったつもり」にさらされて、その安易さも厭らしさも知っているからこそ「アリハラさん」のようなとんでもない変態に対してもその姿勢を貫けるのだと思います。

 

「アリハラさん」の話はもう終わりです。

さて、善悪の観念のない芸術は、イデオロギーの伝達手段としての芸術の強烈なアンチテーゼたり得ます。

 

"だってみんな、自分の意見を抱きしめながら、空いてる手でケンカするんだもの。それなら俺は、家で一人で両手で、自分の意見をぎゅっと抱きしめてればいいと思うんだよ"

( のりしろ『カルシウムでそんでなんかごちゃごちゃ言ってんの俺が』ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ-はてなブログ )

 

小説家の乗代雄介がかつて自身のブログに載せた文章の一部です。

乗代雄介はこだまさんが同人誌という形で初めて文章を世に出すときに、その同人誌を共同制作した仲間でもあります。

イデオロギーの伝達手段としての芸術は、所詮片手で自分の意見を抱いて空いてる手でケンカできるようなものでしかない。こだまさんの文章には空いてる手がない、そもそも、自分の価値観が他人のそれよりも優れているという気さえないという感じがします。

他人の価値観や、それが形成される背景をどこまでも尊重( 決して共感ではない )し、押し付けない姿勢は一見穏便なようにも見えますが、裏を返せば押し付けたいほどの主義主張がないということでもあります。

 

主義主張のないまま、温かく同時に冷めきった視線で自分自身の20年を見つめ、それを文章にして克明に表す。こんな所業は並大抵の人にできることではなく、また、できるようになりたいとも思えません。

そんな過激な人間になる覚悟は到底僕には持てそうもないし、多分なろうと思ってなるものでもないからです。

おもしろかったです。