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感想

感想を書きました

世阿弥『風姿花伝』2

前回『年来稽古条々』から、不遇の時期に芸道を歩む姿勢について感想を書きました。
風姿花伝ではそういった抽象的な話から、細かい能の技術まで論じられています。


"およそ、女がかり、若き為手のたしなみに似合ふ事なり。さりながら、これ、一大事なり。
まづ、仕立見苦しければ、さらに見所なし。女御・更衣などの似せ事は、たやすくその御振舞を見る事なければ、よくよくうかがふべし。衣・袴の着様、すべて私ならず。尋ぬべし。"
(『風姿花伝第ニ 物学条々 女』)


女性の役を演じる時の心得を論じた章です。女形に関して、まず「若き為手のたしなみに似合ふことなり」と、若い演者がやるべきだとしています。そして女形を一大事( 非常に難しいこと )とした上で、仕立( 扮装 )が下手であったら見られたものではないと言います。

衣や袴の着付け方にも、万事定まった約束事があるためよくよく探求するべきだ、と、演者が勝手な解釈で扮装を疎かにすることを諌めています。


続いて、公演によって異なる会場や客にいかに対応するかについて論じた部分を抜粋します。


"まづ、その日の庭を見るに、今日は能よく出で来べき、悪しく出で来べき、端相あるべし。( 中略 )さるほど、いかにもいかにも静めて、見物衆、申楽を待ちかねて、数万人の心一同に、遅しと楽屋を見るところに、時を得て出でて、一声をも上ぐれば、やがて座敷も時の調子に移りて、万人の心、為手の振舞に和合して、しみじみとなれば、なにとするも、その日の申楽は、はや良し。"
(『風姿花伝第三 問答条々』)


「庭」とは会場の事です。その日の会場や客席のの状態を見れば今日の演能が上手くいくかどうかの前兆がある、と言います。
客席が静まり、期待が高まり、気持ちが合わさった瞬間を捉えて登場し、冒頭の謡に入れば、「万人の心、為手の振舞に和合」するものらしいのですが、では、客席が落ち着いていない場合はどうするべきなのでしょうか。


"見物衆の座敷いまだ定まらず、あるいは後れ馳せなどきて、人の立ち居しどろにて、万人の心、いまだ能にならず。されば、左右なくしみじみとなる事なし。さやうならん時の脇の能には、物になりて出づるとも、日ごろより色々と振りをもつくろひ、声をも強々とつかひ、足踏みをも少し高く踏み、立ち振舞ふ風情をも、人の目にたつやうに生き生きとすべし。"
(『風姿花伝第三 問答条々』)


客席が静まらず、遅れてきた客などがいて能に集中する環境が整っていない、しかし申楽は貴人の御前で演じることを本意とするため、貴人がすでに到着している場合には早く始めければいけない。そういう時の冒頭の能は、扮装をして登場する場合でも、いつも以上に動作を飾り、発声も力強く行い、足踏みも高く、人の注目を集めるために生き生きと演じるべきである。


以上の三つの抜粋から、世阿弥の( あるいは能の )考え方として、無私であることを重要視することが挙げられます。当時の芸能は押し並べてそうなのかも知れませんが、殊に風姿花伝においては、「何を表現したいか」「観客に何を伝えたいか」に関する記述は全くありません。

演じる対象に合わせた扮装を「私ならず」徹底すること、客席の状態によって演じ方を変えることは、すべて無私の営みです。
演者の我を捨て、客からどう見えるかだけを問題とする姿勢には厳しくさっぱりとした潔さを感じます。


"能に、強き・幽玄、弱き・荒きを知る事。( 中略 )まづ、弱かるべき事を強くするは、偽りなれば、これ荒きなり。強かるべき事に強きは、これ強きなり。荒きにはあらず。もし、強かるべき事を幽玄にせんとて、物まねに足らずは、幽玄にはなくて、これ弱きなり。さるほどに、ただ物まねにまかせて、その物になり入りて、偽りなくは、荒くも弱くもあるまじきなり。"
(『花伝第六 花修』)


鬼能( 強き能 )と歌舞能( 幽玄能 )の演じ方についての記述です。

幽玄であるべき役柄を力強く演じることは、力強いとは言わず、荒いだけである。力強いはずの役柄を幽玄に演じることは、幽玄ではなく、弱々しいだけである。

ここで世阿弥は、その役にそぐう演技ではなく自分のやりたいようにやることを強く批判しています。

さらに、「強かるべき理過ぎて強きは、ことさら荒きなり」と、やりすぎを諌めてもいます。


この考え方の行き着く先は、シンプルで徹底した演技の追究でした。


"この分け目をよくよく見るに、幽玄と強きとは、別にあるものと心得るゆゑに、迷ふなり。この二つは、そのものの体にあり。( 中略 )万物の品々を、よくし似せたらんは、幽玄の物まねは幽玄になり、強きはおのづから強かるべし。この分け目をば宛てがはずして、ただ幽玄にせんとばかり心得て、物まねおろそかなれば、それに似ず。"
(『花伝第六 花修』)


つまり、ある役柄があった時に、「これは幽玄な役柄だろうから幽玄に演じよう」とか「これは力強く演じよう」とか考えるのではなく、ただ似せることのみを追究すれば、幽玄な役柄は自然と幽玄になり、力強い役柄は自然と力強くなるということです。

世阿弥はここでも、自分の解釈や色を出すことに批判的な態度を取っています。能が客人を楽しませることを目的としたものである以上、演者のやりたいことは全く無視するべきことなのでしょう。
要するに、似てるかどうか、ウケるかどうかが大事で、それ以外はどうでもいいということです。

女の役を演じることに関して、「若き為手のたしなみに似合ふ事なり」と言い切り、「若き為手」以外が演じる場合の対策を全く論じていません。暗に女装が似合わない演者は女役をやるなと言っている。演者がやりたいかどうかは関係ありません。いくら必死に女役に取り組み、上手に演じられるようになったところで、似合ってなければウケないからです。


似合わない役はやらないこと、その場の雰囲気に合った演じ方をすること、役柄に関して自分の解釈をせず、ただ似せることによって幽玄や強さを表現すること。どれも「ウケるかどうか」という観点を一貫できていれば当たり前のようなことに思えます。しかし、どうも表現者や芸術家といった人達は、自分が何を表現したいかを追究するものらしいです。らしいですし、自分の中にある衝動を徹底して掘り下げ、その細部まで形にして見せてくれる人を僕は信じます。


どちらが優れているとかそういう問題ではなく、単に、「徹底しろよ」と言いたい。

世阿弥のように、客にウケることだけを考えるのも芸道の形です。周りを気にせずに自分の信じるイデアのようなものだけを追究する営みも芸術と呼ぶでしょう。

しかし、やりたいことをやってる振りをして上目遣いでチラチラ世間様の様子を確認するような奴や、人にウケるためのエンターテイメントをやってるつもりでもこっそり自分の欲求を満たしてる奴ばっかりではないでしょうか。自分も含めて。

「自分も含めて」と言っちゃう時点で逃げを打っている自覚が湧いてきて嫌な気持ちになりました。「ええわかってます。私もそうです。だから責めないでください」と言っているようなものです。その時点で徹底ができていません。

もっと自分の言葉や行動に伴う責任や結果を受け入れないといけない。一つのことを徹底するためには、あらゆる事象をありのまま受け入れて、「じゃあどうするの?」と問い続けて実行し続けることが必要なのだと思います。世阿弥の背中は見えません。


続きます。