感想

感想を書きました

世阿弥『風姿花伝』3

過去二回に渡って風姿花伝について感想を書いてきましたが、今回で終わりにしようと思います。最後は、風姿花伝の中に度々登場する「花」という文言に関して感想を書きます。


「花」が風姿花伝の中で初めて触れられるのは、『年来稽古条々』の『十二三より』という章です。ここでは、数えで12.3歳、今で言うところの11.2歳の能に関して述べられています。

世阿弥はこの頃の能を「童形なれば、なにとしたるも幽玄なり」「悪き事は隠れ、よき事はいよいよ花めけり」と、幼い時分の特長を述べた上でこう釘を刺します。


"さりながら、この花はまことの花にはあらず、ただ時分の花なり。されば、この時分の稽古、すべてすべてやすきなり。さるほどに、一期の能の定めにはなるまじきなり。"
(『風姿花伝第一 年来稽古条々』)


11.2歳の頃の能は、幼さ故に何をやっても華々しく見え、稽古はすべて容易いものであるが、( だからこそ )一生の能を決定付けるものではない。

風姿花伝第一 年来稽古条々 十七八より』に関して書いた初回の感想文で触れましたが、その後数年が経ち、二次性徴を迎えると幼い時分の花は失われ、苦悩の時期が訪れます。

「時分の花」とは役者の年齢の変化、流行の変化などによって失われてしまう、その時限りの花のことらしいです。


では、そもそも世阿弥のいう「花」とは何なのでしょうか。


"そもそも、花といふに、万木千草において、四季折節に咲くものなれば、その時を得てめづらしきゆゑに、もてあそぶなり。申楽も、人の心にめづらしきと知る所、すなはち面白き心なり。花と、面白きと、めづらしきと、これ三つは同じ心なり。いづれの花か散らで残るべき。散るゆゑによりて、咲く頃あればめづらしきなり。能も、住する所なきを、まづ花と知るべし。"
(『花伝第七 別紙口伝』)


"時分の花、声の花、幽玄の花、かやうの条々は、人の目にも見えたれども、そのわざより出で来る花なれば、咲く花のごとくなれば、またやがて散る時分あり。されば、久しからねば、天下に名望少なし。ただ、まことの花は、咲く道理も散る道理も、心のままなるべし。されば久しかるべし。この理を知らん事、いかがすべき。もし、別紙の口伝にあるべきか。
ただ、わづらはしくは心得まじきなり。まづ、七歳よりこのかた、年来稽古の条々、物まねの品々を、よくよく心中にあてて分かち覚えて、能を尽くし、工夫を極めて後、この花の失せぬ所をば知るべし。この物数を極むる心、すなはち花の種なるべし。されば、花を知らんと思はば、まづ種を知るべし。花は心、種はわざなるべし。
古人曰く、
( 以下、便宜上書き下して引き写す )
心地に諸々の種を含み
普き雨に悉く皆萌す
頓に花の情を悟り已れば
菩提の果自ずから成る"
(『風姿花伝第三 問答条々』)


花は時節によって咲き、散るからこそ魅力があるものである。能の魅力も、咲く時もあれば散る時も必ずある。だからこそ面白い。散ることのない花などない。しかし、「まことの花」を得たならば咲く道理も散る道理も心のままである。

一見矛盾したことを言っているように思えますが、「咲く道理も散る道理も、心のままなるべし」という言葉の真意は、一所に留まることなく、新しい「面白き」ことと「めづらしき」ことを求め続ける営みにこそ、「まことの花」が宿るという事にあります。花はいずれ散ることを受け入れた上で、新たな種を残し続けることが、「咲く道理も散る道理も、心のまま」にする唯一の方法です。

世阿弥風姿花伝の中で度々、得意分野に固執せずに様々な役柄や演目をこなせる役者になることを勧めています。なぜそんなにも物数をこなすことに拘るのか不思議に思っていましたが、それを「まことの花」についての考えに当てはめると合点がいきました。

つまり、一つの役柄が得意でそれでのみ高く評価されている人の「花」は、それが花であるゆえにやがて散る運命を免れない。ただ一つの魅力しかもたない役者の花は「時分の花」でしかない。

ものすごく乱暴に言えば一発屋にしかなれないということです。

天下に許されを得て一座を永続させることを第一とした世阿弥の考えからすれば、自分のやりたい表現など取るに足らないもです。それよりも、何でもできる役者になる方がよっぽど大事、むしろその事にしか興味がないようです。


最後は、世阿弥の残した最も有名な文言である、「秘すれば花」についてです。
「沈黙は金」と混同して使われることもあるこの文言ですが、その意味するところは全く違います。


"秘する花を知る事。秘すれば花なり。秘せずは花なるべからずとなり。この分け目を知る事、肝要の花なり。
そもそも、一切の事、諸道芸において、その家々に秘事と申すは、秘するによりて大用あるがゆゑなり。しかれば、秘事といふことをあらはせば、させる事にてもなきものなり。"
(『花伝第七 別紙口伝』)


世阿弥は、家々に伝わる秘事( および秘伝 )に関して、その内容だけでなく、それが存在する事自体を秘匿せよと言います。

観客が「何か新しい演出があるらしい」と期待した上でそれを見せても大した効果は上げられないからです。だから、新しい事、凄い事をやる前にはそれをやるという素振りすら見せてはならない。それが、「人の心に思ひも寄らぬ感を催す手立」らしいです。


さて、長々と感想を述べてきましたが、これで終わりです。

歴史上の人物が自分にも共感し得る、信じられることを言ってくれている事実、自分が信じる言葉を言ってくれた人が歴史的に重要な人物である事実には相当に救われ、背中を押される気持ちになりますが、そんなことは風姿花伝の内容や世阿弥の意志には全く関係がないのであまり言わない方が賢明かもしれません。

おもしろかったです。