感想

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野田秀樹『オイル』

劇作家・演出家・俳優である野田秀樹による戯曲『オイル』は、戦後間も無くの島根県にやって来たGHQ島根県民の間に起こる軋轢と、大和神話が出雲神話に対して国の明け渡しを迫った「国譲り」のエピソードをドラマチックに掛け合わせて展開したものです。

ダブルミーニングをこれでもかと使った台詞回し、大胆なストーリー展開と、野田演劇の魅力が詰まった作品になっています。

 

野田秀樹は、現実と妄想、圧力と自由などの、どうにもならないことに対する( 不毛にも思える、だからこそ切実な )戦いをしばしば描いています。

 

 

"「辛抱です。貧しい心を車に当てます」

「そや」

「違います」

「何?」

「当たり屋が当てるものは、決意です。(中略)アジアアジアした辛抱を、決意決意した観念に昇華します」"

( 野田秀樹『小指の思い出』)

 

"「ところがとある春の一日、ガラスの一族は反動説をとなえはじめた」

「反動説?」

「天動説でも地動説でもない」

「神様てめえのやることなすことがとにかく気に入らねえんだよ、という説だ」"

( 同『彗星の使者』)

 

 

『小指の思い出』では、辛抱や貧困を決意に昇華して体ごと車にぶつける当たり屋の姿を、旧約聖書に登場する魔女アタリヤの末裔が魔女狩りから逃げる姿と掛け合わせて描いています。

『彗星の使者』では、反動説を唱えたガラスの一族が、300万年の時を超えて神々に反逆すべく壮大な計画を立て、神の怒りに触れてガラス玉の中に閉じ込められます。

 

決意を車にぶつけること、神に向かっててめえのやることなすことがとにかく気に入らねえと楯突くことは、ほとんど八つ当たりと言ってもいいほど生産性がありません。しかし彼らは

 

"もうそうするより仕方ない"

(『小指の思い出』)

 

と、己の衝動に突き動かされるままに、その先が破滅であったとしても構わずに進んでいきます。

 

 

さて、『オイル』では、この「どうしようもない現実に楯突こうと突き進む」姿がひときわ生々しく狂気的に描かれます。

 

島根県に暮らす電話交換手である富士(松たか子)は、電話で死者の声を聞くことができる力を持っていました。そんな彼女には、戦争が終わってアメリカ人化していく人や、自らの故郷を進んでアメリカに売ろうとする人が理解できません。

富士の弟は若手の考古学者で、古代の島根(出雲)にはイスラム教の預言者マホメッド(劇中ではマホメと呼ばれる)がいたという説を提唱していましたが、広島に落ちた原爆によって命を落とします。

 一方古代では、出雲に大和神話の神々が降り立ち、国譲りを迫ります。出雲の人々には決定的な何かが欠けており、そのために一向に話が進まないことに業を煮やした大和の神々は大量殺人を繰り返しますが、それでも国譲りの進行は停滞します。

 

この、大和の神々を島根に進駐してきたGHQに、出雲の人々を島根県民に掛け合わせ、二つの物語は緻密に交錯してゆきます。

富士は、島根をアメリカに売り飛ばしアメリカ人になろうとする元特攻兵ヤマトに対し、

 

"復讐したいな。復讐したいなアメリカに。そうは思わない?さあじゃないの。あなたのことなのよ。あなたのことなのよ。あなたのことなのよ。 "

 

と詰め寄ります。

 

死者の声を聞くことができる、というのは、過去を風化させるという、ほとんどの人に備わっている能力を奪われているということでもありました。

原爆を他人事として片付けて恨みを時に解決させることを、富士は拒否します。ヤマトは自分が原爆の被害を受けたわけではないのだから、「あなたのことなのよ」と言われても戸惑ったでしょうが、富士にとっては他人事ではないのだから、アメリカへの復讐心が枯れないことも致し方ないでしょう。

しかし、アメリカにもそれなりに退っ引きならない事情があるわけで、だからこそ戦争が起こるわけですが、その辺りを富士は全く考慮しません。死者の声を聞く、という能力は、島根付近の死者の声に限定されるものであったようです。

富士は、島根付近の死者の声しか聞こえない( 狭い視野しか持つことを許されていない )ために、アメリカへの復讐心を鮮やかに持ち続けることができます。それを愚かなことだと言う権利を、誰が持っているというのでしょう。

自分の力ではどうしようもない出来事に直面した時、世界を再定義することで自分の心を落ち着けようとすること、一般的にそれは賢明な行動です。しかし富士にはそれが出来ない。

 

"もう聞き飽きた。「現実を受け入れろ」って…それは、誰のための現実?何のための現実?"

( 平田オリザ『海、静かな海』)

 

 "想像してみて   自分たちは雪空のような繭に守られていると"

( 今日マチ子cocoon』)

 

なぜ現実を受け入れなければいけないのか?なぜ復讐心を持ち続けてはいけないのか?富士の目を通して、そういった疑問が個人的な単位では解決されずに存在し続けていることをまざまざと見せつけられます。

 

"己のしたいことがなんだったのか、それがわかるかもしれないという希望の今際の際を目指して、必死に足を動かし、迷路を彷徨ったのではないか。そうなることはわかっていて。わかりながら足を運ぶ。断じて狂ってなどいない。冷静だ"

( のりしろ『熟慮の余裕(アイヒマン調書 イスラエル警察尋問録音記録)』)

http://norishiro7.hatenablog.com/entry/2014/02/13/223135

 

 

さて、ここまで長々と書いてきたわけですが、この演劇は、主人公に据えられたのが富士であるために、この演劇自体が、ひいては野田秀樹自身が個人的な復讐心を肯定していると誤解される危険性を孕んでいます。これは『オイル』に限らず様々な創作物に言えることですが、作中で何が描かれていようと、それが作者自身の主張だと思ってしまうのは、受け手の態度として不純であると思います。

 

"「それ、誰?」

チェーホフ

「誰が言ったのよ」

チェーホフだってば」と姪は語気を強めた。

「小説でしょ?誰が言ってたの?」

「忘れた。『ヨーヌィチ』の中だった」

「じゃあヨーヌィチが言ったのよ。ドミートリイ・ヨーヌィチが。チェーホフが言ったんじゃない。"

( 乗代雄介『十七八より』)

 

"僕にもしも自分の雑誌というものがあるとしたら、執筆者の経歴などというものを載せる欄は絶対に設けないだろうと思います。作者の出生地、子供の名前、仕事のスケジュール、アイルランド独立運動の際に兵器を密輸したかどで逮捕された年月日などというものを僕は格別知りたいとは思いません。"

( J.D.サリンジャー )

 

創作物の裏にいる作者を意識から追い出し、「作者の主張」「作者の意図」などという読書感想文めいた視点を捨てなければ、純粋にフィクションを楽しむことなど出来ません。

『十七八より』の叔母と姪の会話、サリンジャーが文芸誌編集者へ送った手紙の一節を心に差し挟んで『オイル』を観ると、そこに浮き上がってくるものは、野田秀樹の存在を意識しながら観た場合とは姿が変わっています。『オイル』はそうやって観るべき演劇だと思います。決して、教訓を与えることや啓蒙を目的とした演劇ではないはずだ、ということです。

 

僕はは主義主張のための創作物をくだらないと思ってしまうので、野田秀樹がそんなものを書くはずがないという期待の上でこう言っている部分があることを否定はできないのですが、創作物の内容と作者自身の考えは別物とするべきだ、という考えは間違っていないと思います。

 

"芝居の目的とは、昔も今も、いわば自然に向かって鏡を掲げること、つまり、美徳には美徳の様相を、愚には愚のイメージを、時代と風潮にはその形や姿を示すことだ。"
( シェイクスピアハムレット』)

 

ハムレットもこう言ってることだし。