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北条裕子『美しい顔』(群像 2018年6月号)

今年の6月に「お、乗代雄介の新作が載ってるじゃん」と思って買った群像に、群像新人文学賞受賞作としてものすごい小説が掲載されていて度肝を抜かれてしまいました。

北条裕子の『美しい顔』は、群像新人文学賞の受賞後、芥川賞にもノミネートされ、受賞の期待が高まる最中、表現の無断借用が発覚し、大きな話題となりました。

 

https://www.sankei.com/smp/life/news/180629/lif1806290021-s1.html

(事件の概要をまとめた記事)

 

問題が明らかになる前に読み、興奮していた身としては、ひえ〜〜という感じでした。正直ちょっとがっかりもしました。剽窃自体よりも、そんなことでこの小説の価値が損なわれてしまうことにです。今後『美しい顔』を読む人には、このスキャンダラスな事件のイメージを抜きにした読書体験が訪れることはありません(新潮社が講談社をバキバキに批判している文章とかあるし、ゴシップとして楽しむ気持ちもわからなくはないですが、自分が良いと思ったものが馬鹿どもの言葉で汚される様を見るのは気分のいいものではありませんね。著者である北条裕子が若く美しい女性であることも騒がれる要因の一つのようです。本当に最悪)。そのことが本当に悔しくなるほど、この小説はすごい。

稀に、「作者はこれを書かずにはいられなかったんだろうな」と思わせる熱量を持った小説があります(樋口一葉の『たけくらべ』や『にごりえ』、太宰治の『人間失格』などはその代表的な例でしょう)。『美しい顔』は、新人らしい荒さがありながら、それすらも魅力に変えてしまうほどの情熱的な文章でラストまで読者をぐいぐい引っ張っていくような力がありました(同号に掲載されている、乗代雄介の四作目の中編『生き方の問題』が、デビュー作『十七八より』にあった熱を失ったかわりに円熟味を増したことと対照的でした)。

 

 

"小説を書くことは罪深いことだと思っています。この小説はそのことを特に意識した作品になりました。それは、被災者ではない私が震災を題材にし、それも一人称で書いたからです。

実際、私は被災地に行ったことは一度もありません。とても臆病で、なにもかもが怖く、当時はとても遠くの東京の下宿から、布をかぶってテレビを見ていたのです。現実が恐ろしくてしかたがなかったのです。

(中略)

そのくせです。

実際に時が過ぎ、テレビでも震災のことはあまりやらなくなり、状況が静まりかえってから(あくまでも静まりかえったようにみえてから)その間にさんざん溜め込んでしまったなにか得体の知れない不快なものを、私は私の中に自覚しました。それはおそらく憤りでした。"

(北条裕子 受賞のことば 群像2018年6月号掲載)

 

受賞のことばにある通り、この小説は被災者の一人称で書かれています。その視点から、震災を取材に来る人たちやボランティアに対しての憤り、屈折した感情が生々しく描かれています。

 

"なぜ私はお前なんかに見せてやらなければならない。なぜお前なんかにサービスしてやらなきゃならない。なぜ私がお前なんかを気持ちよくさせてやらなければならない。プロカメラマンになったような気持ちよさを、なぜお前なんかにくれてやらなければならない。かわいそうを撮るなら金を払え。かわいそうが欲しいなら金を払え。被災地は撮ってもタダか。被災者は撮ってもタダか。(中略)かわいそうにかわいそうにって涙流して気持ちよくなりたいなら家でやれ"

(『美しい顔』本文より )

 

冒頭からこんな調子なもんだから興奮しますね。

主人公は顔のきれいな(そしてそのことを自覚している)被災地の少女です。津波によって母親の消息が不明になり、希望を捨てずに母親を探す美少女としてテレビに取り上げられます。皮肉にも著者自身もその騒がれ方をしてしまったわけですが。ああ、こういう時に美少女だとかが外せない要因なんですよね世の中っていうのは。美人すぎる〇〇とか、ふざけんなよ。

当事者ではない私達は、いくら被災者のことを思って心をいためても、結局それは自分が気持ちよくなってるだけなのかも知れません。映画を見て涙を流すことと同じで。当事者ではないという絶対的な壁がある限り、私達の心の中では震災もタイタニックも似たようなものなのかも知れません。小説だって同じことです。

つまり、『美しい顔』は、当事者ではない人間が事実をコンテンツとして消費することを糾弾しながら、この小説自体もその誹りを免れないというねじれた構造になっています。この矛盾こそが凄味を生んでいると言っても差し支えないでしょう。テレビを、報道を、自分自身すらも巻き込んで、人間全体を告発しようというのです。

 

ところでこの小説は、正直言って終盤あんまり面白くありません。主人公が葛藤を乗り越え、現実の生活を始めようとしたあたりからあんまり面白くありません。物語がご都合主義になってくる感じがして、序盤〜中盤にあった凄まじい熱量とリアリティは急速に失われていきます。

「終盤あんま面白くなかったな」と思いながら読み終えた時、あることに気がつきました。それは、僕自身も、主人公の憤り、被災地のリアルな描写を面白さとしか捉えていなかったということです。それに気づいた時、この小説を本当に恐ろしいと感じました。気づいたら背後に回り込まれていたような感覚になりました。

主人公の激しい怒りに共感したふりをして、読者である自分だけは清いつもりでいた僕自身も、作中に描かれるテレビマン達と同じだったのです。

終盤の陳腐さが意図されたものかは知る由もありませんが、それによってこの小説は、読者の逃げ場すらない、徹底した批評性のあるものとなったのです。

 

 

https://m.huffingtonpost.jp/2018/07/07/kiyoshi-kanebishi_a_23476700/

 

表現を盗用されたとされる、『3.11 慟哭の記録』(新曜社)の編者・金菱清による、『美しい顔』へのコメントです。

一読して、そうじゃねえよ、と思いました。「被災者の言葉に対する敬意を欠いている」とか言ってますけど、そこじゃないんですよ絶対。大事なのはそこじゃないんですよ。

あなたも被災者の言葉を収奪してコンテンツにしてはいませんか?敬意なんて本当は存在しない・意味がないんじゃないですか?という事なんです。敬意がどうとかいう善悪の次元でやってないんだよ。「単に小説のネタとして、彼らの言葉を使っただけではないでしょうか」とか言ってますけど、そうだよ。報道も小説もそれに過ぎないんじゃないか?って事なんだよ。自分だけはきれいなふりするなよ。きっとあなただって例外じゃないんだよ。

 

しかし、引用元・参考文献が明記されていなかったことでこの小説は槍玉に挙げられたわけですが、すべて明記していたらどうなっていたんでしょうか。現実を伝える、記憶を風化させないという使命感に満ちたノンフィクション作家達の実名を書き連ねてしまったら、もう言い訳できない、具体的な対象のある完全な批判になってしまわないでしょうか。そっちの方が事件だよ。

 

http://www.kodansha.co.jp/upload/pr.kodansha.co.jp/files/pdf/2018/180706_Gunzo.pdf