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乗代雄介『生き方の問題』(群像 2018年6月号) 1

文芸時評】8月号  早稲田大学教授・石原千秋  正しいことを言うときは  相手を傷つけやすいものだと

https://www.google.co.jp/amp/s/www.sankei.com/life/amp/180729/lif1807290016-a.html

 

「文学は体制を批判するもの」なんて言い切ったら、文学は一気につまらないものになってしまいませんか?「文学研究のポリティカルコネクトレスは嫌いだ」と言うなら、そんな社会に依存した考えを持たないでよ。体制への批判なんてものは所詮体制に依存した考えで、『美しい顔』が強い批判力を持っていたとしてもそれは副産物でしかないのです。岩城京子が現代演劇を「周縁メディアだからこそ客観的に中心を眺めることができる」と言ったように、文学もまた周縁から中心を射抜く一矢となり得ることは疑いませんが、あくまで「なり得る」だけであって、「文学は体制を批判するもの」だなんて言い切られると、それは違うよって気分になってしまいます。

現代っ子である僕の目から見ると、体制を批判するものとしての文学の役割はすでに終わっています。

 

"神里雄大と村川拓也(一九八二年生まれ)が大学に入学した時点では、ウェブに常時接続できた日本人は、まだ三割強である。なおネット常時接続の有無が、影響を及ぼしているかどうかは定かでないが、神里・村川のふたりと本書で採り上げる他の作家たちとのあいだには、明らかに想像力の断層線が横たわる。

その差異を平易に述べるなら、前者二人がおのれの身体を「距離計」のように利用して、自分と事象とのあいだの距離を、客観的に計測しつつ作品にアプローチするのに対し、ほかの多くの作家たちは、身体をいわば「地震計」のように用いて、自分はあくまでもおなじ場所に居座り、その場で時代の振動を受信して、事象自体を自分の肉体に内在化してしまっている。"

( 岩城京子 編『日本演劇現在形 時代を映す作家が語る、演劇的想像力のいま』序論より )

 

「文学の役割」と言いながら演劇の話を持ち出すのは筋違いもいいとこですが、この話は文学にもあてはまる事のように思えます。

インターネットの普及によって、人々の頭脳空間は無際限に拡大し、「ここ」という空間的連続性は失われました。東京は急速に変貌をし続ける不定形な情報の集合体です(地方でも、インターネット常時接続によって人々は二重の時間を同時に過ごしています。ネット空間における東京と地方の差は、その二つの時間の結びつきが強いか弱いかの差です)。大量で雑多な情報(その中には当然、様々なイデオロギーが含まれている)が常に身体を通過してゆく日々は、自分と他者との明確な境界線をあやふやなものにさせます。それが、「事象自体を自分の肉体に内在化」させることでもあります。

「体制」も「他者」の一つであるとするならば、主観的視座において、体制は批判するべきものでも、善悪・正誤の判断をするべきものでもなく、ただ「(自分の内部に?)ある」ものでしかないのです。

あと僕の好みの話なのですが、何かしらの主義主張をしてくる文学作品って死ぬほど退屈じゃないですか?芸術を道具として使っている感じがして。だからプロレタリア文学とか読む気がしないんですよね。

 

しかし冒頭の記事を書いた石原千秋という人は、文学ひいては芸術を社会的メッセージとしか取ることができない人のようです。だから藤田貴大の『BOAT』を非寛容に対する批判だと見てしまう。

BOAT』の主軸を非寛容だとすると、その描き方が単純すぎてつまらない。それよりも、終盤の「名前のない土地」や「舞台に立っているのも、客席でそれを見ているのも私だった」といった台詞を頼りに物語を遡った方が面白い。そうして見ると、絶望の中で人はどう生きるか?という、より普遍的な問題が立ち上がってきます。

 

"我々は往々にして「正しい」、または「まちがった」という言葉を使うが、情報処理をその使命として生きるものに「正しい」も「まちがう」もないのではないか。

みなさんも不安だろうから、ワタシはひと思いに言ってあげよう。我々は「正しいこと」なんかできはしないのだ。できるのは「すべきである」決断と行動という情報処理だけである。そして、その結果が正しくなかったとしても、我々はリアルタイムであることをやめてはならないだろう。それに続く「すべきである」決断と行動という情報処理を、継続するしかない。いかなる問題が起ころうとも、「しない」ことによって解決しようとしてはいけない。常に「する」ことで解決するしかないのだ。やめるな!一生やれ!なんでもやれ!ほっといてくれ!"

( いがらしみきお『IMONを創る』)

 

いがらしみきおの言葉(一応言っておきますが、やらなかった後悔よりやった後悔なんていう話じゃないですよ。一応)を思い出した時、「舞台に立っているのも、客席でそれを見ているのも私だった」という台詞が腑に落ちました。

人間の持つ機能の根幹を情報処理だとすると、あらゆる他者や環境は情報として自我に内在化されます。その時他者は自分自身であると言えます。ならば絶望する必要はどこにもありません。自分も、自分ではない誰かも、非寛容でさえも、すべて自分であって自分でないからです。

 

"象が大きいのは、何か他の物ーー犬とか女の人とか、そういったものと並べたときだけ言えることでね

(中略)

つまり、もしも草は緑だと教えると、子供たちは初めから草をある特定の見方ーー教えたそのご当人の見方ーーで見るようになっちまうーーほかにも同じようによい見方、いやもっとはるかによい見方があるかもしれないのにさ……よく分かんないけどね。ぼくはただ、両親やみんなが子供たちにかじらしたりんごを、小さなかけらの果てまでそっくり吐き出さしてやりたいんだよ

(中略)

ある物がある態度をとる代わりにある形で存在するからといって、それが無知蒙昧の理由にはならないさ"

( J.D.サリンジャー『テディ』)

 

そんな感じで、森羅万象をただ単に森羅万象でしかないとした時、あらゆるものを記号化してしまう自分の脳に疑いを持った時、「文学は体制を批判するもの」なんて口が裂けても言えなくなるのです。文学の本領は社会批判でも啓蒙でもないのです。当たり前だろ!では本領とは?

 

そんな風なことを考えていたら、乗代雄介の『生き方の問題』を読み返したくなったので、読み返してみることにしました。

今までのは全て前置きです。続きます。