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乗代雄介『生き方の問題』(群像 2018年6月号)2

"歴史を遠ざけよ。同時性の状況に立つのだ。これが基準である。私が同時性を基準にして物事を裁くように、私もまた裁かれるのである。背後に流れる無駄話はすべて幻想だ。"

(キェルケゴール)

 

『生き方の問題』の冒頭にエピグラフとして引用された、デンマークの哲学者キェルケゴールの言葉です。僕はキェルケゴールに関して、『死に至る病』の人、という知識くらいしかありません。これだけでは理解が難しかったのでネットで少し調べてみたところ、こういった文章を見つけることができました。

 

"キリストは(わたしはこれを大まじめで言っているつもりだ)楽しいお芝居をやってみせてくれる役者ではない。またたんなる歴史上の人物でもない。かれは背理として最高度に非歴史的人物であるからだ。

しかし、同時性こそ、詩と現実を区別するものである。

詩と歴史の相違は、歴史が現実に起こったできごとであるのに対して、詩は可能性、空想、創作という世界の産物であるところにある。

ところで現実に起こったこと(過去のできごと)といっても、それは或る特定の意味での、すなわち詩の世界に対立する意味での現実にほかならない。そこには、真理(内面性――たましいの問題――としての)の、そしてまたすべての宗教性の特質である、「きみ自身にとって」という性格が欠けている。

過去のできごとは、「わたし自身にとって」の現実ではない。同時的なるものだけが、わたしにとっての現実である。きみがそれと同時にあって生きているものが、きみにとっての現実である。そしていかなる人もこのようにして、ただ自分がそこにあって生きている時(時代)に対してしか同時的になれないのである――もしも、あのもう一つのものと、すなわち地上におけるキリストの生涯と同時的になることがなければ!なぜなら地上におけるキリストの生涯は、聖なる歴史として、歴史のそとに、ただひとり聳え立っているからである。"

(『キルケゴール著作集17 キリスト教の修練』)

 

これを読んで、『生き方の問題』の前作である『未熟な同感者』で引用されていた二葉亭四迷の言葉を思い出しました。

 

"例えば此間盗賊に白刃を持て追掛けられて怖かったと云う時にゃ、其人は真実に怖くはないのだ。怖いのは真実に追掛けられている最中なので、追想して話す時にゃ既に怖さは余程失せている。こりゃ誰でもそうなきゃならんように思う。私も同じ事で、直接の実感でなけりゃ真剣になるわけには行かん。ところが小説を書いたり何かする時にゃ、この直接の実感という奴が起こって来ない。人生に対するのが盗賊に追われた時の心持ちになって了う。"

( 二葉亭四迷『私は懐疑派だ』)

 

堂々と孫引きするのは憚られるような気がしますが、引用態度なんて知ったこっちゃねえという気持ちでいます。

長い引用の後、『未熟な同感者』の本文はこう続きます。

 

"サリンジャーの過酷な戦争体験を読む時、描かれた戦争が私たちの体験の一つに数えられることはない。もちろん、読むことで自分の体験を思い出すこともあるが、その体験すら過去、つまり文章の外にある。

では、文章を読んでいる時、実際に今ここで体験可能なものはなんであろうか?それは、目下にある文字の並びしかありえないのだ。そして、それだけで十分なのだ。"

( 乗代雄介『未熟な同感者』)

 

キリストの言葉を読むとき、その生涯を思うとき、それは「きみ自身」にとって、歴史ではなく詩としてあるでしょう。キリストの言葉を読む時、「読んでいる」という実感以上のものはあり得ないのだから。人間がリアルタイムでの情報処理をする生き物である以上、「同時性の状況に立」たずに何かをすることはできない。

 

この「リアルタイム」「情報処理」というのは、前回引用した『IMONを創る』から表現を借りました。それっぽいことを言うために人の言葉を捻じ曲げちゃいないかという不安を抱えたまま、勢いに任せて話を続けましょう。

 

"なぜならすべての生き物は"情報処理"こそ本来の姿だからである。

極論すると、処理するのが務めであって"正しく"と言うのが、務めではないのである。情報処理の停滞が起きたとき、生き物もビッブもおかしくなる。

ちなみにワタシの事務所である"IMO"の社訓はこうだ。

①一生やる

②なんでもやる

③ほっといてくれ

これを正しいと言わずして、何を正しいと言うのか。"

( いがらしみきお『IMONを創る』)

(ビッブ…「ビットブレイン」の略。一般的に言うところのパソコン)

 

恥を忍んで告白しよう。僕が『IMONを創る』を読んだのは、乗代雄介が自身のブログで紹介していたからです。僕が何かを読んだり思ったりしたことは、とてもとても狭い範囲で誰かに手を引いてもらって得た体験でしかありません。

それはさておき、いがらしみきおは、現代人を病気とした上で、「リアルタイム」は病気にかかったまま生きていく方法の一つだと言います。その根拠が前回の記事で引用した文章です。

現代人にとって一番の問題は「人間関係」であるといがらしみきおは言います。なるほど現代人が情報処理をする局面というのはすべて人間関係に集約されそうです。

①人間の使命は情報処理である

②情報処理はリアルタイムでなければならない

③現代人の一番の問題は人間関係である

この3つに従うと、人間関係に対してリアルタイムであることが現代人のあるべき姿だということになります。

 

"すなわち、"人間関係"は、ここにきて"作品"になるということだ。"

(『IMONを創る』)

 

ここで、乗代雄介がブログで『IMONを創る』に関して述べた文章の一部を参照してみましょう。高校時代に寝る間も惜しんでこの膨大な文章量のブログを片っ端から読み漁ったことが今の僕に悪影響を及ぼしている気がしないでもない。

 

"僕はこの本を読んだ時に、初めてカントが腑に落ちたような気持ちがしたのでした。

 

あなた自身の人格にも他のあらゆる人の人格にも同じように備わっている人間性を、つねに同時に目的として用い、けっして単なる手段としてだけ用いることのないように行為しなさい
(『人倫の形而上学の基礎づけ』第2章)

 

 カントが言うのは「作品に対する芸術家のように、熱く、そして醒めながら人間関係に接さねばならないだろう」ということに他ならないのではないでしょうか。
 芸術家は、その作品を創ることを「目的」とし、創られた作品を「手段」として金銭や人脈を得たいわけではない。そんな者がいたとして、そんな者は芸術家と呼ばれはしない。
 人間関係も、そのように「目的」と捉えなければならないのです。"

( のりしろ『ワインディング・ノート25(『IMONを創る』・いがらしみきお・カント)』-ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ )

http://norishiro7.hatenablog.com/entry/2015/02/22/180000

 

"熱く、そして醒めながら人間関係に接さねばならない。
  それはリアルタイムであり、マルチタスクでありました。何か問題が起こったとして、それこそ人生が破綻しそうな大問題を抱えていても、朝がきたら起きて、 お腹がすいたらご飯を食べる。別の事をしているときに前の仕事を引きずってはいけません。これにより、ごはんを食べているときは、大問題の悩みから解放されます。リアルタイムを生きる限り、正しいも間違いもないのだから、悩んでいる意味はないのです。
 そして、女がいたら、その女は、女との人格の交流は、性行為のための「手段」となってしまいかねない。そんなことでは良くないのです。"

(同上)

 

交流を手段とすることが双方の幸せになることだってある、という事を僕は最近ようやく知ることができたのですが、どうやら知るのが遅すぎたようなので、とりあえず今は乗代雄介といがらしみきおとカントを信じようと思います。

人間関係を目的と捉えることは、情報処理をその使命とすることとほとんど同義であろうと思います。

 

"離ればなれの僕らは

誰の力も借りずに  ほら、ちゃんと出会えたじゃないか

間違ってなかった  歴史はすべて間違いじゃなかった

そうだ  二人の距離、それがこの世界の直径

そしてそれを縮めていく、人類の歴史"

( 毛皮のマリーズ『愛のテーマ』)

 

"ただ 私のかなしみはこの世界の犠牲ではなくて  それ自体が喜び"

( 大森靖子『アナログシンコペーション』)

 

これらこそ、「情報処理を使命とする」人間、すなわち人間関係の芸術家の姿勢ではないでしょうか。僕がここまで3500字ほど費やして、他人のすぐれた文章を借りて借りて、結局自分の言葉では書けなかったことを、志磨遼平と大森靖子はなんて簡潔かつ平易に言い表してくれるのでしょう。こういう人たちが現代に生きて音楽をやっているというだけで世の中捨てたもんじゃねえなって思える。機嫌のいい日は。

 

しかし、簡潔であることや平易であることを美徳とするなら、交流それ自体を目的とする人間同士で交わされる最上の会話は「おはよう」の応酬になってしまわないか?「人間関係を作品とする」という思いは、「愛がすべてさ」なんていう言葉に言い換えられてしまうのか?

考えるより先に感覚が、そんなわけないだろ!と強く否定してくれました。おそらく僕がその感覚を持ったのは文学のせいなので、『生き方の問題』が、そんなわけないだろ!の根拠となってくれることを信じて、次回から本題に入ります。