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乗代雄介『生き方の問題』(群像 2018年6月号)3

前回の記事の最後に「簡潔であることや平易であることを美徳とするなら」と書きましたが、考えてみるとそのような前提を置く必要はまったくありませんでした。勢いで適当なことを書いてしまいました。

とは言っても、交流それ自体を目的とする人間同士の会話の行き着く先は「おはよう」の応酬なのか?という疑問は依然としてあります。

今の気持ちを率直に言うと、「多分そう」です。

前回は「そんなわけないだろ!」と書きましたが、今は「おはよう」ほど純粋に交流を目的とした言葉はないと思います。やっぱり挨拶って素晴らしいものだね。

 

それはさておき、今年の6月頃に乗代雄介の『生き方の問題』を読みました。

この小説は、祥一という青年が従姉であり想い人である貴子へと送る手紙という形で綴られます。

 

"これを読まなくちゃ ー 今まさに貴方が読み始めた、世にも珍しいエピグラフ付きの手紙を、そんな風に認識したのはいつだった?昨日か今日か、それよりずっと前か。"

(『生き方の問題』冒頭より )

 

前回紹介したキェルケゴールの言葉をエピグラフとして始まるこの手紙は、上に引き写した書き出しに象徴されるように、それを書いている「僕」と読んでいる「貴方」という二者の存在を強く意識しながら綴られます。

 

"かと言って、僕はその答えを知りたいわけじゃないし、そもそもこの手紙が貴方の家の郵便受けに届く日(二◯一八年七月七日)も知っている。なにしろ僕自身がそのように指定する張本人だし、今貴方がこうして読んでいるということは、僕が立派にやり遂げたってことに違いないんだから。"

 

キェルケゴールのいうように「歴史を遠ざけ」「同時性の状況に立」った場合、手紙を書いている「僕」の時間とそれを読んでいる「貴方」の時間は文章の上で同時であるといえます。(あるいはそれこそがこの手紙の目的なのか?)つまりこの手紙は、「僕」がそれを書いている時どこかに存在している「貴方」に向けて書かれたものではなく、それを読んでいる時の「貴方」に向けられたものであるということです。そもそも文章というものは本質的にそのようなものですが、書き出しであえてそれを意識させる「僕」の意図を、読み手である私(この小説の読者)は汲み取ってやらなきゃいけないように思えます。私は書き手(祥一)の想定する読み手(貴子)ではなく、それを盗み見る傍観者でしかないのだから。せめてそのくらいはしてやらないと。

 

ご丁寧にも乗代雄介は、手紙の形で書かれる小説について、前作『未熟な同感者』でじっくり論じてくれています。

 

"サリンジャーは「ハプワース」で、読者を両親役、つまり書き手に感情移入しない立場に据えた。それによって、読者は配役の上では「両親が児童に対するの態度」で読むことになるが、それは同時に、シーモアの手紙が、また「ハプワース」という小説が書かれた態度でもあるのだ。

(中略)

この時、七歳という「設定」を際立たせる最も簡単な方法は、子供からの子供じみた作文にしてしまうことだろう。しかし、それでは逆に、親と子が乖離し、そこに書かれた「子供らしさ」を追懐する可能性が高まってくる。それでは、読者を「書く行為」の体験から遠ざかることになる。"

( 乗代雄介『未熟な同感者』)

(「ハプワース」…J.Dサリンジャーの小説『ハプワース16、一九二四』七歳のシーモアがキャンプ地から家族に送った手紙をシーモアの弟バディが引き写すという形で書かれた)

 

作品と作者を安易に結びつけるのはあまりいい趣味とは言えませんが、ここまであからさまだと許されるでしょう。

僕は、いささか頭でっかちにも感じられた『未熟な同感者』は、『生き方の問題』の読者のための啓蒙であったのではないかとすら思います。しかし、「ハプワース」が読者に「両親が児童に対するの態度」を求めたのと同じように『生き方の問題』が読者に「貴方(貴子)」の態度を求ているかというと、それはそうでもないような気がします。

 

"すると、「大工よ」の献辞における「読書の素人」とは、赤子のフラニーに象徴される、読書を運動する言葉として、読み書きの分別なく体験する者たちに宛てられた言葉のように思えてくる。サリンジャーが小説を捧げたいのは他でもない、そのような読者たちなのだ。"

(『未熟な同感者』)

(「大工よ」…J.Dサリンジャーの小説『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』)

 

"僕は自分の書きぶりについては重々承知してるけど、貴方が幼少期からどれくらいこうした文章に親しんだかどうかについては、全く雲を摑むような話なんだ。この事実は、つまり僕が貴方の読み手としての素性を何も知らないというのは、僕と貴方、どちらを有利にしているんだろう?書き手はいつも、書いたものを一刻も早く読み終えて欲しいと願うべきなのか、こんなのもううんざりって貴方が手紙を畳んじゃうならそれを甘んじて受け入れるべきなのか?まとめると ー 貴方のおつむに、僕はどう寄り添えばいい?それとも、そんな必要ないのかな?"

(『生き方の問題』)

 

(『未熟な同感者』での言葉を信じるなら、)サリンジャーが「ハプワース」で読み手に一定の態度、つまり「読書の素人」たることを求めたのに対して、『生き方の問題』の手紙は読み手である貴子が「読書の素人」であるかを確認せずに進んでいきます。

シーモアの手紙の読み手はシーモアの両親です。読者はそれを思い「親が子に対するの態度」で「ハプワース」を読むことが求められています。では祥一の手紙を貴子はどういった態度で読むのか?従弟に対するの態度?そんなんある?

つまり、祥一の手紙および『生き方の問題』は、読者のことなんてわかったもんじゃないという前提の上に書かれているのです。これは祥一の、あるいは乗代雄介自身の諦念といえるでしょう。

 

このとき諦念とは何に対してのものなのかというと、「完全な同感者」を得ること、です。

 

"憧れの従姉に手紙を綴る僕は、頼りない文字を媒介に一緒になりたいと願う。"

(群像2018年6月号 目次より)

 

『生き方の問題』が群像に掲載された際の紹介文です。「一緒になりたいと願う」ことはすなわち、貴子を「完全な同感者」たらしめようとすることでしょう。では、「完全な同感者」とは?

 

"テクスト論とは、血も涙もないものでも、手抜きの研究者が守備範囲を絞るために用いるものでもないのである。理想を浪漫に和えて言うなら、むしろ血と涙をしぼった書くという体験のなかに、作者と読者を三位一体にするものなのだ。その時、他動詞ではなく、自動詞としての「読む」が呼び出される。そして、それは自動詞の「書く」と全く同じものなのである。

(中略)

書いた読んだの関係における「完全な同感者」とは、そこに書くという体験の産物すなわち文字しか存在しない限り、作者のことを忘れて「読む」ことで、自動詞の「書く」を同じ強度で体験する者でしかないのだから。"

(『未熟な同感者』)

(テクスト論…文章を作者の意図として読むのではなく、文章それ自体を独立したものとして読むべきであるという考え方)

 

祥一にとって「書く」ことは他動詞ではなく自動詞としてあります。何を書くかが重要なのではなく、書くことそのものが重要なのです(やっと、文学の本領は社会批判ではないという話に戻ってこられた気がします。社会批判は他動詞としての「書く」の対象物にはなり得るが、自動詞の「書く」の目的ではない)。

「完全な同感者」とは、自動詞として書かれた文章を読む、すなわち「書く」という体験そのものを共有する(決して、書かれている内容を追体験するのではなく)人間のことを言います。そのとき、読むことは書くことと同義になります。

もちろんこれは極論です。しかし、「完全」を求めるのであれば極論を振るうしかない。

 

"ゲティスバーグでは五万一千百十二人に上る死傷者が出た。その記念日に誰かが演説をしなければならなくなったとしたら、その人は前に進み出て、聴衆に向って拳を振って、そしてそのまま退ってゆくのが本当だ ー もしもまったく正直な人間ならばそうあるべきだ、僕はそう言ったのである。それを言うと彼は、ぼくの考えに賛意を示さず、ぼくがある種の完全性コンプレックスを持っていると感じとったらしかった。"

( J.Dサリンジャー『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』)

 

シーモアもこう言ってる。聴衆に向って拳を振ってそのまま退ってゆくことは、意味内容を伴わない「おはよう」なのではないか?

文学を志す人間というのはどうしても大まかな理解や共感を認めないものらしいです。それらをよしとする「未熟な同感者」に背を向けて、「書く」という体験を共有することそのものを目的に書き続けるしかない。

 

ようやく、「情報処理を使命とする」人間すなわち「人間関係の芸術家」の話と繋がってきました。続きます。