感想

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乗代雄介『生き方の問題』(群像 2018年6月号)4

シーモアの言うとおり、ゲティスバーグで演説をするときは「聴衆に向って拳を振って、そしてそのまま退ってゆくのが本当だ」としたら、書かれている意味内容を追体験させるための修辞は本質的には無意味なものになるように思えます。

 

"一般に、私達の日常においては、言葉は専ら「代用」の具に供されている。例えば、私達が風景について会話を交す、と、本来は話題の風景を事実に当って相手のお目に掛けるのが最も分りいいのだが、その便利が無いために、私達は言葉を藉りて説明する。この場合、言葉を代用して説明するよりは、一葉の写真を示すにしかず、写真に頼るよりは目のあたり実景を示すに越したことはない。

かように、代用の具としての言葉、すなわち、単なる写実、説明としての言葉は、文学とは称し難い。なぜなら、写実よりは実物の方が本物だからである。

(中略)

言葉には言葉の、音には音の、そしてまた色には色の、おのおの代用とは別な、もっと純粋な、絶対的な領域が有るはずである。

と言って、純粋な言葉とは言うものの、もちろんその言葉そのものとしては同一で、言葉そのものに二種類あると言うものではなく、代用に供せられる言葉のほかに純粋なものが有るはずのものではない。畢竟するに、言葉の純粋さというものは、全く一に、言葉を駆使する精神の高低によるものであろう。高い精神から生み出され、選び出され、一つの角度を通して、代用としての言葉以上に高揚せられて表現された場合に、これを純粋な言葉と言うべきものであろう。

( 坂口安吾『FARCE に就て』)

 

(この、ただの代用ではない純粋な言葉による交流を目指すところに「人間関係の芸術」があるのかも知れない。やはり挨拶だけでは交流とは言えない。こんな風にして僕の考えはこれからも二転三転していくのだろうと思う。)

 

追体験などたかが知れている。内容によって読者の(本来一回きりの)感情が再生されたとして、その時文章は感情を再生させるための引鉄でしかなく ー それはあくまで読者がそれまでに体験してきたものに準拠するものであるから、作者・読者を同感へと導くものではありません。

 

"ケニーは過度に興奮する子供で、何を読んでも自分に関わる意味を読み取ってしまう。そして、文学を成り立たせているほかのすべてのことを無視してしまう。"

( フィリップ・ロス『ダイング・アニマル』)

 

そんな考えを、シーモアをカウンセリングした医者は「完全性コンプレックス」だと感じとったのでしょうか。

 

ここに一つの光明があります。それが「リアルタイム」です。「完全性コンプレックス」という病気に対して「リアルタイム」は有効に働きます(あるいは、リアルタイムを求めるからこそ完全性コンプレックスに陥る)。

繰り返しになりますが、リアルタイムである限り、書くときの実感は書くことであり、読むときの実感は読むことそのものです。そして読むことが書き手の実感を得ることに直結する場合、読むことと書くことは文章の上で一致します。完全な同感はその時にこそ訪れます。そしてそれを可能とするのは、読書を運動する言葉として読み書きの分別なく体験する「読書の素人」なのです。

その営みは情報処理そのものと言えます。「完全な同感者」とは、情報処理を使命とする人間すなわち「人間関係の芸術家」でもあるということです。

 

では、祥一はどのように体験し、どのように書いたか。あるいは、書くことをどのように体験したか。

 

"貴方の後について本殿へ向かう。賽銭箱の前に立ったところで、僕は貴方に礼拝作法について訊ねた。

「いつもわからなくなるんだよ」

「あたしもわかんないよ」と貴方は言った。「ごまかさなきゃいいんだよ」

高々と賽銭投げてそのまま合わせた手を眉間にあてる。深い穏やかな目のつむりで一心に祈る姿に見とれた僕は、何も願いをかけられなかった。ただ漫然と手を合わせて、そこに立っていたのだ。ごまかさなきゃいいんだよという言葉だけが頭の内に繰り返されていた。

こんなことは大した罪滅ぼしにもならないだろうが、僕は良しとされるいくつかの作法を知っていた。訊ねたのは、貴方に先んじないようにするためだ。ところが間違っていたのは僕の方なんだな。つまるところ「ごまかさなきゃいい」という以上に大事なことなんて何一つとしてない。"

(『生き方の問題』)

 

"僕も貴方もゆめゆめ我を忘れてはならないんだ。そのためには、あの実際はどう絡めたのかも覚えがない舌を今も試しに動かしてみることができるのは、今この時の「我」だけなのだという事実に目を背けなければ ー ごまかさなきゃ ー いい。これを書き終えられるのも、読み終えられるのも、一番外にいる僕と貴方しかいない。僕たちは二人きりなんだ。"

(同上)

 

祥一はまさに今書いており、貴子はまさに今読んでいる。それはリアルタイムであり、マルチタスクでもあります。「歴史を遠ざけ」「同時性の状況に立」ったとき、漫然と手を合わせて突っ立っている祥一と、それを見るもう一つの目がある(マルチタスク)。それは小説家のまなざしです。あらゆる物事を現象界から叡智界へ持ち去ってやろうと目論むもう一つの目。

 

"「さっきのあれさ、あたし、バチが当たっちゃったって思っちゃったんだよね。神様がいるか知らないけどさ、ちゃんと見てるんだなって。そんなことするなってことなんだよ」と貴方はしばし黙りこんだ。そして言った。「ごめんね」

迷信深い女らしい発言を僕は苦々しく聞いていた。あんなことに何の意味もないと言おうとして、だからそれは間違ってると言おうとして、それを言ったらどうせ悲しむと思ったら、言葉にならなかった。

それをこうして書いてしまえるのが僕の卑怯だ。だからあの時、崖の上から僕と貴方を見てうっかり音を立てたのは、今これを書いている僕のような卑怯者だったに違いない。というのも、過去の出来事が書かれる時、そのまなざしは、実際にその出来事が起こった時もそこにあるというのが、今の僕のおめでたい実感なんだ。あの時、すんでのところで上空から向けられたまなざしが貴方の言う「神様」なら、あの出来事を書こうと一帯の文字に目を落としている僕こそまさにそれなんだ。ところが「神様」は、まなざしとゆるく結ばれた手の動きで始まりと終わりを隔てる以外は完全な無能力ときてるから、二人に手を下したりはしない。ただ粛々と、面白みのない悲劇でも喜劇でもないを、時間から切り離されたものとして、目にしたまま書き続けるだけだ。

何を言っているのかわからないかも知れないけど、つまり、いつか全てが書かれるという受身・尊敬・可能・自発を全て含んだ助動詞的確信を持って生きる僕のような者は「神様」の存在に思いを寄せずにはいられないわけだ。"

(下線部は引用元では傍点があった部分)

 

その出来事が起こった時に、それを見つめ・書くまなざしが既にそこにある ー すなわち、出来事とそれを書く時、すらも、文章の上では同時であるということか。

ならば小説家というやつは、常に「書く」まなざしを持ったまま現実との二重時間を生きるなんとも因果な生き物だ。

 

"「よく眠っていたものだな。」

そこで私は、偶然を偶然として描いて、読者に必然の思いをさせるのが、この際の小説家の手腕であると知りながら、やはりなにか必然を道案内人に立てたくてしかたないのは、私がやくざな小説家だからであろうか。殺される者の心理が、知る人もなく消え失せたとすれば、私はただ彼女等について、私の夢を織ればいいのであって、反って好都合なのに。

「よく眠っていたものだな。」という言葉さえ、素直に信じられないのは、そのようなさがゆえ所詮女をまことに愛することも出来ないほどの、我が身の因果であろうか。"

( 川端康成『散りぬるを』)

 

"「二人が脆く殺されたことに、お前が責任を感じないでか。お前はこの殺人事件を無意味なゆえに美しいと見たがりながら、いろんなしたりげな意味をつけた。二人の女をまことに愛しておらなかった証拠と知るがよい。この殺人を、三人の生涯になんの連絡もないもの、三人の生活になんの関係もないもの、つまりこの一つの行為だけが、ぽかりと宙に浮かんだもの、いわば、根も葉もない花だけの花、物のない光だけの光、そんな風に扱いたかったらしいが、下根の三文小説家に、さような広大無辺のありがたさが仰げるものか。ざまをみろ。」

「おれは小説家という無期懲役人だ。山辺三郎のように、そのうち女でも殺して獄死するだろうさ。」"

(同上)

 

川端康成には、殺された女(川端の弟子とまでは言わずとも、家などの世話をしてやった女であったらしい)の死をまともに悼むことすらできません。彼の持つ小説家としてのもう一つの目が、悼もうとする彼の後頭部の少し上の中空に浮かんでいるからでしょうか。それとも、死をまともに悼むことができない性格がその目を生み出したのでしょうか。ともあれそんな人間が現実の生活で真に幸せを得ることはとてもとても難しいことでしょう。

川端康成は、書くことのために現実を歪め、想像で補完し、文字という媒体に落とし込むことを「想像の悪」と呼びました。ああ、川端は果たしてリアルタイムであっただろうか。そのまなざしを「想像の悪」などと称する必要など、本当は無かったのではないか。

 

その辺りのことはシーモアが話してくれそうな気がします。

続きます。