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野田秀樹『贋作・桜の森の満開の下』坂口安吾『桜の森の満開の下』『夜長姫と耳男』穂村弘『短歌ください』

http://norishiro7.hatenablog.com/entry/2014/02/14/140751

 

http://norishiro7.hatenablog.com/entry/2014/02/17/134723

 

一つ目の記事の方が乗代雄介の本心のような気がしませんか?(おそらく)一つ目の方を得意な文体すなわち得意な思考法で書いているとはいえ、「言葉から見ると、感情というのは絶海の孤島として」あるはずなのに、です。

 

ところで、去年の9月に東京芸術劇場NODA・MAPの『贋作・桜の森の満開の下』を観ました。

僕はこの芝居を観てから、野田秀樹を信じすぎてはいけないなと思うようになりました。坂口安吾の『桜の森の満開の下』『夜長姫と耳男』の二編を下敷きに一本の芝居をまとめ上げる脚本は見事というほかありませんが、なにか胡散臭さのようなものを感じてしまう。

 

"「俺はほんとうにあんなこと言いたくなかったんだ。」

「あんなこと?」

「もはやここに、内と外はない!上か下だ。わかるな、天か地だ!という脅し文。」

「うん、あんたそんな人柄というか鬼柄じゃなかったのにね。」

「だから大きい声じゃ言えないけどオレは鬼だったころの方がなつかしい。」

「実はオレもだ、エンマロ。あの頃の俺たちは輝いていた!それがさあ。」

「今は緊張感がないっていうか、棒が重たいっていうか。」"

( 野田秀樹『贋作・桜の森の満開の下』)

 

オオアマ(天武天皇)が地方豪族や辺境の部落を象徴する「鬼」を束ねて国の統一を成した後の鬼達の会話です。

「鬼だったころの方がなつかしい。」なんて簡単に言わせてしまっていいのか、と思います。「なつかしい」って、あまりに簡単に感情を揺さぶられてしまいませんか。遠く離れた故郷やもう戻ってこない時間はほとんど無条件に甘美なものになる。そんなのズルじゃん。

野田秀樹の演劇は面白い。言葉遊びを巧みに用いた脚本の手腕と力強くスピード感に溢れた演出に圧倒されてしまう。

 

https://youtu.be/OuCtJMnRjHk

 

1992年版のラストシーンです。桜吹雪の中、鬼と化した夜長姫の胸を耳男が貫き、耳男は桜の森に座り込む。坂口安吾の『桜の森の満開の下』『夜長姫と耳男』は、どちらもこれに類似するシーンで終わりを迎えます。

 

"とっさに彼は分かりました。女が鬼であることを。突然どッという冷たい風が花の下の四方の涯から吹きよせていました。

男の背中にしがみついているのは、全身が紫色の顔の大きな老婆でした。その口は耳までさけ、ちぢれた髪の毛は緑でした。男は走りました。振り落とそうとしました。鬼の手に力がこもり彼の喉にくいこみました。彼の目は見えなくなろうとしました。彼は夢中でした。全身の力をこめて鬼の手をゆるめました。その手の隙間から首をぬくと、背中をすべって、どさりと鬼は落ちました。今度は彼が鬼に組みつく番でした。鬼の首をしめました。そして彼がふと気付いたとき、彼は全身の力をこめて女の首をしめつけ、そして女はすでに息絶えていました。

彼の目は霞んでいました。彼はより大きく目を見開くことを試みましたが、それによって視覚が戻ってきたように感じることができませんでした。なぜなら、彼のしめ殺したのはさっきと変わらず矢張り女で、同じ女の屍体がそこに在るばかりだからでありました。"

( 坂口安吾桜の森の満開の下』)

 

"「とうとう動かなくなったわ。なんて可愛いのでしょうね。お日さまが、うらやましい。日本の野でも里でも町でも、こんな風に死ぬ人をみんな見ていらッしゃるのね」

それをきいているうちにオレの心が変わった。このヒメを殺さなければ、チャチな人間世界はもたないのだとオレは思った。

ヒメは無心に野良を見つめていた。新しいキリキリ舞いを探しているのかも知れなかった。なんて可憐なヒメだろうとオレは思った。そして、心がきまると、オレはフシギにためらわなかった。むしろ強い力がオレを押すように思われた。

オレはヒメに歩み寄ると、オレの左手をヒメの左の肩にかけ、だきすくめて、右手のキリを胸にうちこんだ。オレの肩はハアハアと大きな波をうっていたが、ヒメは目をあけてニッコリ笑った。

「サヨナラの挨拶をして、それから殺して下さるものよ。私もサヨナラの挨拶をして、胸を突き刺していただいたのに」"

( 坂口安吾『夜長姫と耳男』)

 

坂口安吾の『桜の森の満開の下』では、「鬼」は特に前触れなく唐突に現れます。「女(=鬼)」と夜長姫、そして桜の森に共通するものは何だろうか。それを考えるのは読者に与えられた楽しみです。

野田秀樹は、「鬼」を辺境の象徴としました。しかし、そうすると趣きがまったく変わってきてしまいます。耳男自身が辺境の人間であるので、耳男が鬼と殺し合うのは意味が通らない。夜長姫のおそろしさは、決して辺境の象徴として片付けられないものであるはずではないか。

そのことに気づいたのは、劇場を出て新宿の書店で戯曲を買い、帰りの電車で読んでいる時でした。観ている間は、深津絵里の演じる夜長姫に圧倒されてまったく気になりませんでした。圧倒されて気にならなくなってしまうのは仕方ない。仕方ないけれど、なにか欺瞞をはらんでいるような気がしてならない。面白いからこそ、信じすぎてはいけないと思う。

 

"そこは桜の森のちょうどまんなかのあたりでした。四方の涯は花にかくれて奥が見えませんでした。日頃のような恐れや不安は消えていました。花の涯から吹きよせる冷めたい風もありません。ただひっそりと、そしてひそひそと、花びらが散りつづけているばかりでした。彼は始めて桜の森の満開の下に坐っていました。いつまでもそこに坐っていることができます。彼はもう帰るところがないのですから。

桜の森の満開の下の秘密は誰にも分かりません。あるいは「孤独」というものであったかも知れません。なぜなら、男はもはや孤独を恐れる必要がなかったのです。彼自身が孤独自体でありました。

彼は始めて四方を見廻しました。頭上に花がありました。その下にひっそりと無限の虚空がみちていました。ひそひそと花が降ります。それだけのことです。外には何の秘密もないのでした。"

(『桜の森の満開の下』)

 

年々、桜が苦手になってきている。無情に咲いて、それはもう咲きまくって、いくつになっても新鮮に驚けるほど綺麗で、驚いているうちに一気に散って、気狂いじみていると思う。この世の追いつけなさ、を、こんなにシンプルかつ大胆に見せつけてくるものもそうない。桜が咲くだけでなにか切ない気持ちになるのは、俺がそうなっているんじゃなくて、桜にそうさせられているとしか思えない。

 

すこし、冒頭に紹介した記事の話に戻ります。

 

"「ダシャン」という延命装置によって、自分の人生を特別なものにしていけばそれはそれで快適だろう。しかし、ふいにやってくる揺るぎのない「ガシャン」に触れて、何を思うことができるか。それを熟慮することが、文学ではないのだろうか。いや、文学なんてもうないのだな。「ガシャン」を「ダシャン」に空耳する技術を高めるだけで精一杯で、創作物でさえその食い物だ。"

 

改悪例を出すのは穂村弘の得意技です。改悪例を出すことによって、なにがその一首を特別なものにしているのかをはっきりさせることを意図したものらしい。

 

"自らがダメな例を具体的に作って見せることによって、現状の歌がいかによいかを鮮やかに浮かび上がらせる。尊敬語ではなく謙譲語の発想というのだろうか、自分を下げて対象を上げるのだ。これは、誰も傷つかないで、みんなが勉強になるという画期的な手法でもある。こういつ発明ひとつをとっても、投稿者への愛情の深さがうかがえる。

最後に、選と評からうかがえる「穂村弘が大切にしていること」をもう一つあげるとすると、ささやかなことを受けとめる器としての短歌だ。

「蛇口から膨らみ落ちる水」を詠んだ作品に対して「こういう何の役にも立たない、でも、確かに世界に存在する部分を短歌にするのは、とてもいいことだと思います」。

あるいは、「リンスを手に受けたままじっとしている」時間を詠んだ作品に対して、「社会的には『無い』ことになっている、そんな凍った時間が歌のなかで甦っています」と書いている。"

(俵万智『短歌ください』解説より)

 

たしかに、「ダシャン」の歌を読んで、「ガシャン」ではダメだと言われると、絶対に「ダシャン」の方が面白いと思えます。面白い、から、じゃあその一瞬が特別なものになるかと言うと、それとこれとはまったく別な問題のような気がします。短歌はあくまでテクニックを楽しむつもりで一歩引いて読むものなんじゃないか。あんまり感動を求めすぎると、文学との境目が見えなくなってくる。そうなってしまうと文学も楽しめなくなりそうだ。

 

そうやって創作物との距離を保たなければ、野田秀樹だってたちまち劇作家から扇動者に早変わりするだろう。

面白いやなつかしいで観客の心を緩めて主張を刷り込むことは、バーで女を酔わせてホテルに連れ込むのと大して変わらないんじゃないか。そんなんやったことねーけどな。

酔ってさえいればどんな曲がかかっても乗れてしまう。いやーめっちゃ楽しかったす、またイベントやるとき誘ってください。それが嘘じゃないから余計にタチが悪い。嘘ついてるんじゃなくて騙されてる。大学生になってからというもの、誰かとじっくり話すときに酒が入ってないことの方が珍しくなってしまった。酒飲んでしゃべってる内容も嘘じゃない。嘘じゃないからこそ、普段の俺もその時の俺もなんなんだ、と思う。酔ってなきゃどんなに好きな曲でも乗れない。

誰かに何かを伝えようとする時だって、文章のうまい人だと思われよう--酔わせよう、としている。

 

"太宰治だってバカろくでもない。ああでもないこうでもないと文章をこねくりまわして、くしゃくしゃに丸めた原稿用紙を放り投げて、書き直して書き直して、最後にコレだ、コレが私の作品だとうなずいてそっと手を放すんだから、全員、どもりを隠してるみたいなもの。それで嘘ばっかりつく。どもりの嘘つき。それが小説家。わけもわからずありがたがってる奴の気が知れない。瑛子みたいなくだらないメガネかけた奴。それで人よりかしこい気でいる。どもりません。嘘もつきません。そんな顔してすましてる。鼻水ぴゅんぴゅん飛ばしてたくせにえらそうに。「走れメロス」だって、良いと思っていたけど、書くときに一回でも迷って、書き直したんならもう終わり。ウソ。全部が最低最悪。どもりの嘘つき。自殺すべき。"

( のりしろ(乗代雄介)『やおいな・こった』)

 

こんなことばっか言ってたら今に何も楽しめなくなってこんなんになっちゃいそうだ。別に嘘でもいい、嘘つきでも好きだよ、と思えている間は何だって読めるし観れる。それだって酔っていることには変わりないが、自覚できていればそのぶんいくらかマシだと思う。