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キングオブコント2019の感想

いや〜〜、面白かったですねえ。今までで一番面白いと思いました。コントってすごいとこまで行ってるんですね。全組めちゃくちゃ面白かった。全組めちゃくちゃ面白かったしすげえ笑ったけど、決勝の審査に疑問を感じてしまいました。感じてしまったものはしょうがない。こっちは素人だぞ、素人だから好き勝手言っていいだろ。

 

審査員は、コントの価値、すなわち他のジャンルにはないコントだけが持つ面白さ、のことを考えてくれていたのでしょうか?俺には、審査員たちが笑いを取るための手段の一つとしてコントを審査しているように見えて仕方がありませんでした。
だからといって悪いとか間違っているとかいうつもりはなくて、ただ悲しい。とても…俺は審査員がそれぞれやっているコントをを好きなのに、あの五人は俺の好きなものを好きじゃないかもしれない…勝手に期待して勝手に裏切られた気分になっている。ダメなファンの典型である。

 

 


ここからはどんどんきもい話をします。お笑い好きというよりコント好きとして思ったことです。

 


笑いを距離感ごとにざっくりと分類すると、
①当事者としての笑い(空間を共有していて直接影響を与え合う)
②傍観者としての笑い(空間を共有しているが直接の関わりはない)
③観測者としての笑い(空間を共有していないが、見ている)
の三つになるように思います。その中でコントが最も得意とするもの -繰り返しになりますが、他のジャンルでは表現しづらい面白さ- は、②の傍観者としての笑い、だと思っています。

比べて漫才は芸人がお客さんに向けて話しているという前提がありますから、基本的には①の距離感でやっているものだと思います。
例えばアルコ&ピースの漫才みたいなメタに入ったりすると、観客は①から②へと離れていきます。だからこそかつては「コント・漫才師」なんて言われたりしたのでしょう。

 


話に箔をつけるために有名な人の言葉を借りると、コントの大家である別役実は、笑いは
・言葉遊び
即物的笑い
・形象の笑い
・関係の笑い
・不条理の笑い
の五つに分類できると言います。
別役実は不条理コントの人なので「不条理の笑い」について最も深く考察しているのですが、それによると、不条理の精神状態を作り出すためには「第一次感覚(ある物事に自然に対応する感覚)」から「第二次感覚(メインではない、隠された文脈から喚び起される感覚)」へのズレを積み重ねること、らしいです。
そのことを「一つうそをつくと、その架空の立場に立って、その架空の立場からもう一つのうそに飛躍ができる」とも表現しています。

この「架空の立場」に観る者を巻き込みやすい、巻き込まれやすいのは、コントが最も得意とする傍観者の距離感です。そこに空間を共有するものとしてのコントの価値はあるのではないでしょうか。

 

"演劇は、その性質上「ここ」という特定の空間に、特定の演者と観客の身体が、共に在ることを要請するメディアである。まただからこそ、体験の質よりも、消費の数を崇める理論が玉座に掲げられる、日本という大量消費社会の本丸で、演劇の存在感が薄くなることは不思議ではない。そしてむしろこれは、メディアとしての短所ではなく、利点と捉えるべきかもしれない。その空間的制限のため、マイナー・メディアとしての立ち位置に、否応なく据え置かれているからこそ、演劇はこの国の消費汚染を免れ、弱いけれども健やかな表現として生き延びる可能性がある。周縁空間から消費社会という震央を射抜く一矢として、演劇の批評性にはかすかなポテンシャルがある" (岩城京子)

 

これは演劇の話ですが、「批評性」を「笑い」に置き換えればコントにも同じことが言えます。喜劇とコントの境目なんてないんだから。

 

"ここは遠い太古の市、ここに一人の武士がいる。この武士は、恋か何かのイキサツから自分の親父を敵として一戦を交えねばならないという羽目に陥る。その煩悩を煩悩として悲劇的に表わすのも、その煩悩を諷刺して喜劇的に表わすのも、共にそれは一方的で、人間それ自身の、どうにもならない矛盾を孕んだ全的なものとしては表わし難いものである。ところがファルスは、全的に、これを取り扱おうとするものである。そこでファルスは、いきなりこの、敬愛すべき煩悩の親父と子供を、最も滑稽千万な、最も目も当てられぬ懸命な珍妙さにおいて、摑み合いの大立廻りを演じさせてしまうのである"(坂口安吾)

 

この辺りに演劇とコントの境目があるように思ったこともあったし、そう思っている人も多いでしょうが、どうも全然そういうことではなさそうだ。
坂口安吾のいう「ファルス」と「喜劇」の2つに含まれるものの中で上演時間が短いものがコントと呼ばれるのでしょうか。

いや、演劇とコントの分類の話はもうやめましょう。不毛だから。分けようとすること自体に意味がありません。シソンヌを「演劇のような」とか言ってるの見ると、ハハッって思っちゃいますよね。

 

 


キングオブコントに話を戻しましょう。
ここまでダラダラと述べてきた、コント(または舞台)にしかできないことを最も体現しているのはかが屋でした。
かが屋の披露したコントは -おそらく二人はそれを意図して作ったのではないということは置いといて- ドラマのような出来事の連続によるストーリーではなく、因果律の組み立てによるプロットで出来たものでした。

 

"テレビや映画と違って、お話の始まりから最後までの場面を、全部時間順に並べるということは不可能なんです。ですから、いくつかの状況のかたまりに区切って、その区切られた場面の中で、それぞれの登場人物が持ってきているそれぞれのストーリを全部そこで凝縮しなくちゃいけない"(別役実

 

"劇作家は、ストーリーの中で、ある特定の象徴的なシーンだけを抜き出して舞台を構成し、その前後の時間については、観客の想像力に委ねるのだ。逆に、観客の想像力を喚起するような台詞を書くことが、劇作家の技術の一部だと言うこともできるだろう"(平田オリザ)

 

ということです。逆に言うとそれをドラマでやるのは不可能なわけじゃないですか。映像作品としてああいうコントをやったら、そもそもが好きなように切り取っていいのに切り取り方の妙を見せられたってさ…みたいな感じにります、多分。
(M-12018で和牛がやった2本もプロット思考でできたネタのような気がしています。漫才でそんなことできる人がいちゃったら言ってることがめっちゃブレるので、和牛はすごすぎるから特別ってことにしています。漫才も舞台のものだし。ああ、でも和牛は因果律をその場で0から作り出すのか)

 

"オチのために登場人物が喋ってるようだと最悪よ。いつでも自由なパンチが放てるようにしとくべきだ。俺が言いたいのは、最後までそいつを本当の意味で人間らしくしておいてくれってこと"(乗代雄介)

 

 


キングオブコントはテレビ番組です。俺だってそのくらいはわかる。テレビの視聴者は観測者です。それを考慮すると、②と③のバランスが特に綺麗に取れていたのはゾフィー空気階段ではないでしょうか。
松本人志ゾフィーを「カメラワークに助けられている部分がある」と評しましたが、舞台があって、客席があって、それをテレビ越しに見ている(劇場、またはゾフィーのコントにおいては謝罪会見の会場、という空間を意識しながらテレビを見ている)視聴者にとってあれほどクリティカルなコントもないと思い、僕はむしろカメラワークの良さも込みで良いコントだと思いました。会場にいたわけじゃないからわからないけど、多分ウケてもいたし。
空気階段は展開がすごすぎて、観てて追いつくのに必死になってしまいました。自分の理解力不足が本当に情けないところですが。
(マジの余談ですが、ヘチマを手にした楽器屋の店主が「入りそうだな〜」って具合に出来心でそれをトランペットにねじ込み、取れなくなってしまい、試行錯誤を経た結果「まいっか」と思ってそのまま売った、というとこまで想像したらめちゃくちゃ面白いな、と今朝になって思いました)

 

で、ゾフィーかが屋空気階段の点が低い!!なんてこった!うわーーーーー!!
いや、どぶろっく面白かったです。バカみたいに笑いました。でも、どぶろっくはコントにしか出来ないことをやってくれましたか。下ネタどうこう以前に、ごく単純なフリボケと天丼のネタじゃないですか。もちろんそれとしてのクオリティはすさまじく高いし、大会の空気とか流れも相まってめちゃくちゃ面白いのはわかります。でもあれって、「逆に」のやつじゃないの。「逆に」のやつって、「順に(GAG)」ありきの面白さじゃん。例えばああいうコントがすごく増えて劇場で見るコントがああいうのばかりになったら、それは進歩ではなく退行だと思うんですよ。あれは死ぬほど面白いけど、他のコントを食い物にする悪いコントです。
コントの大会なんだったら、これまでに作られてきた膨大な数のコントの存在を汲んだ上でそれを一歩先に進めてくれるようなものを評価してくれたっていいじゃないですか。生き様とか知らんよ。コントの話をしてくれよ。キングオブコントはテレビで売れそうな芸人を探すオーディション番組か?そうですか。そうなんですか。じゃあもういいよ。もうわからないよ。あー、芸人なりたくねーな。向いてないわ。

 

"満天にお前の星たちが全部でているというただそれだけの理由でいいからぼくが五時まで起きているようにしてくれ。それだけの理由でいい"(サリンジャー

 

 


俺はお笑いが好きというよりコントが好きです。だからこういうことを考えてしまう。普通、コントはあくまでお笑いの一形態として捉えるべきだし、笑ったものを素直に面白いって言うべきなのはわかってます。俺の見方は良くない視聴者のそれです。畢竟好みの問題でしかないことも、こんなん書くのがきもいことも知ってる。
でもさ、です。でもさ、なのです。単純にウケで比べるんなら、なんのためにコントだけの大会をやっているんですか。なんのために客投票でも視聴者投票でもなく審査員なんですか。はあ〜〜あ。

 

 

 

『日本演劇現在形   時代を映す作家が語る、演劇的想像力のいま』岩城京子 編  フィルムアート社

『FARCEに就て』坂口安吾  筑摩書房ちくま日本文学全集 坂口安吾』より
別役実のコント教室  不条理な笑いへのレッスン』白水社
『演劇入門』平田オリザ  講談社
『カルシウムでそんでなんかごちゃごちゃ言ってんの俺が』乗代雄介ブログ『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』内記事
シーモア-序章-』J.D.サリンジャー  新潮社