野田秀樹『エッグ』

歌人としての寺山修司を評して、穂村弘

 

"寺山はイメージのコラージュによって幻の〈私〉を創り出した。その根底にあるものは、現に感受された個人的違和の、他者に共感可能な最大公約数的イメージへの強引な転換にほかならない。(中略)大滝や水原が表現の入力と出力をデジタル変換によって直結しているとすれば、寺山はそこに読者という他者の想定を持ち込んだとも言える。"

( 穂村弘『短歌という爆弾』)

(大滝…大滝和子   水原…水原紫苑)

 

と述べています。なるほど寺山修司の作品というのは、作品の虚構性を自覚した上で成り立っているように見えます。

結局寺山修司は短歌の世界から身を引いたのですが、虚構を生み出す自己を責める姿勢を持っていては、短歌を続けることは確かに難しいだろうなと思います。

短歌を目にするとき、読者は無意識に歌中の主語を作者に置いています。

寺山修司は「書く人間に対する疑いをはらまない」ものを信用できないと言います。それを思えば、自分の目を通し、自分の心に深入りし、それをできるだけ生の形で言葉にしようという短歌の営みがそぐわなかったのは当然だと言えます。

 

寺山修司は映画『田園に死す』で、自身の同名歌集を元にしながら、その虚構性をきびしく批判しています。歌中の主語である少年時代の自分自身に向って、「あんなものではなかった」「腹が立った」と、わざわざナレーションを使ってまでその存在を否定しようとします。過去を振り返って語ろうという時につきまとう自己肯定性、表現の都合によって事実を美化することを。

いや、批判・否定という言い方は正しくありませんね。寺山修司は連続体としての書き手の実存性を疑い、韜晦させながら、逆説的にそれを求め続けたと言うべきかも知れません。

  格好つけて「韜晦」なんて言いましたが、こんな言葉普段は絶対に使いません。

 

 

さて、野田秀樹の戯曲『エッグ』は、改装中の劇場を女学生の一団が見学するシーンから始まります。そこで見つかった寺山修司の未完成原稿『エッグ』の中で描かれたエッグという架空のスポーツを主軸に置いて物語は展開します。

つまり、現代の場面に始まって、寺山修司が書いた戯曲の世界の中に入る、という入れ子構造になっています。それも単なる劇中劇ではなく、寺山修司の戯曲を現代の視点で読みながら物語は進みます(読んでいる過程と同時進行で登場人物が動くため、当然そこには読み違いが生じる)。さらに、エッグというスポーツ自体が、戦時中に起ったある出来事を美化して語られた架空のもので(追記…このあたりの記述は間違いかもしれません。野田秀樹の戯曲は読むのが難しい)、それもまた入れ子構造を複雑怪奇なものにする一因となります。

つまり、

過去にあった出来事

を、もとにして作られたスポーツ「エッグ」

を、扱った戯曲 寺山修司作『エッグ』

を、読み違えながら作られる劇 (劇中劇)

ということです。さらに寺山修司の戯曲自体が何者かに改変されてたりして、もう何が本当かわからなくなります。しかしその「何が本当かわからなく」なることこそが野田秀樹の狙いなのでしょう。

歴史は常に現代の視点から見る事しかできません。ならば、歴史とはアカシックレコードのようなものではなく、現代と共に姿を変え続けるオーロラのことを言うでしょう。その危うさを見せつける『エッグ』の劇中劇である『エッグ』の作者として寺山修司を置いたところに野田秀樹の技を感じます。

 

 寺山修司は、映画『田園に死す』で示した、現在の都合によって改変される過去や自己肯定性に根ざした抒情性を疑う姿勢をもって戯曲『エッグ』を書いたであろうことは想像に難くありません(一応言っておきますと、寺山修司作『エッグ』は実在しません。全て野田秀樹の創作です。ただ、その作者が寺山修司だという設定があるということは、受け手である我々も、寺山修司が『エッグ』を書いたのだと信じ込んで、その創作の姿勢に思いを馳せるべきだと思うのです)。

野田秀樹は、作中に登場する「現代の芸術監督」が、戦時中に731部隊が行なった人体実験を「スポーツ」と読み違える(追記…「読み違え」たわけではなかったかもしれません)、という凄まじい大仕掛けによって現在から見た過去の不安定さを表現しました。その読み違いに抵抗するように、寺山修司の戯曲は後半になるにつれ具体性を増して行きます。

(追記…731部隊が世に知られるきっかけとなった小説『悪魔の飽食』は、ところどころ創作が混ざっており、ノンフィクション小説と呼ぶに足る信憑性はない、とする説が有力なようです。劇中ではさも隠された真実のように描かれる731部隊の人体実験ですが、本当のところそれがどのようなものであったかは誰にもわかりません。)

 

 

では、野田秀樹『エッグ』は、寺山修司が自らの(実在する)作品で示したテーマの焼き直しなのかと言うと、当然そんなことはありません。

寺山修司が過去に対する認識の危うさをあくまで個人のレベル、自分自身への問いかけとして『田園に死す』で描いたとすれば、野田秀樹『エッグ』はそれを普遍化しようとする試みであったのではないでしょうか。

野田秀樹は、平田オリザが打ち出した現代口語演劇は「口語」ではなくある年代の「現代語」であり、局部対応でしかないと言います(『野田秀樹 新しい地図を携えて』KAWADE夢ムック 文藝別冊 )。

それが増加してゆく一方である近年の演劇界の流れに抵抗するように、ギリシャの時代から続く「詩の言葉のある演劇」を今も作り続けています。野田秀樹が作ろうとしているものは、新時代の古典となり得る戯曲なのです。

寺山修司が示したテーマを731部隊に託して描くことで、心の問題を社会の問題へと、抽象を具体へと変化させ、さらに、現代による書き換え・読み違いや、時代を軽々と飛び越える演出によって、社会の問題を再び心の問題へ、具体を再び抽象へと回帰させる壮大な二度手間によって、個人の問題は普遍化されました。

野田秀樹の戯曲は、一人二役であったり、過去と未来を同時に描いたりする仕掛けによって、読者(または観客)が登場人物に感情移入することを拒みます。

それは、テーマをただ個人のものとして収めるのではなく、古典となり得る普遍性を持ったものを作ろうという野田秀樹の創作への姿勢の現れなのです。

(追記…野田秀樹自身は、「古典」を現代にも生きる言葉が綴られたものとして使っていないようです。彼の言い回しを借りるなら、野田秀樹が作ろうとしているものは「残るコトバ」というものです)

 

 

気づけばずいぶん長く『エッグ』と野田秀樹について書きました。ファンなんです。野田秀樹は批判してますが、僕は平田オリザも好きです。

 

しかし、本来は体験であるはずの演劇というものを、再演でもしてくれない限り観ることができないからといって戯曲を買い集めてせこせこ読んでわかったふりをする行為は、涙が出るほど無意味ですね。その空間を共有することに意味があるだろうに。

 

"我々は現象界に属しながら叡智界に棲む"

( カント )

 

文学は本来の性質として、現象界にあるものを叡智界に持ち去ろうという術であるために、書き手の体験を現象界に棲まう読み手が共有することはできません。

それに比べて演劇のなんと親切な事でしょう。叡智界と現象界の扉は開いており、表現者と我々が同じ空間・体験を共有することができるのですから。

どうも、本当にくだらないことをしているな。

 

"作品を見て、林眞須美という作者があまりにはっきりと見えすぎる時、それを描く体験は林眞須美のものであり、見ている者の体験ではない。(中略)我々は、作者を亡き者にしなければ、それを自分の体験にすることはできないのだ。"

( 乗代雄介『未熟な同感者』)


"ここで書かれる「あなた」は、戦争体験を分かち合う戦友のような「完全な同感者」としての読者である。そんな読者は、今まさに書かれている文章を、読むことで書いているのだから、本の余白に解釈じみた書き込みを入れるはずがない。その結果、彼らは別の部分でバディが書くように「腹立たしいほど無口」になるだろう。"
( 同上 )

 

作品を読み込もうとする時、読者の興味は自然と作者へと向かって行きます。これは仕方のないことですし、そうすることで批評は意味を成してきたのですが、実は読者は、そうすることで「体験」から引き離されているのです。

 

 

 

https://m.youtube.com/watch?v=PHV3lXbR2lw